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源平とその周辺 |2012.06.01

源平とその周辺:第7回 惜しまれる与一の死

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〈岡崎四郎(義実)、兵衛佐殿(頼朝)に、「与一冠者こそ討たれ候ひけれ」と申せば、「あな無慙や。よき若者を。頼朝もし世にあらば与一が後世をば弔ふべし」と仰せられければ、岡崎は「縦ひ五人十人の子をば失ひ侍るとも、君だに御世に立ち給はば、それこそ本意に候へ」と心強く言ひけれども、流石恩愛の道なれば鎧の袖をぞぬらしける。〉『源平盛衰記』 (引用文献 水原一『新定源平盛衰記』新人物往来社)
 佐奈田与一と、与一を幼少のころから大切に育ててきてくれた文三家康(家安)が石橋山での奮戦の末に討たれた。冒頭の引用文は、父親の岡崎義実が、「与一は討たれたが、頼朝様がこの世をお治めになるのであれば、それこそ本意です」と気丈に言うものの鎧の袖を濡らしたという話。石橋山の合戦は頼朝軍の敗北に終わった。
 与一の死に関しては、敵の首を斬ったあとに血を拭わずに鞘におさめてしまったので、いざというときに血詰まりして刀が抜けなかったのがその一因とされる。また、与一が俣野と組み合っていたときに味方が加勢しに来るも、暗闇での味方の問いかけに対してたんがからんで答えられなかったために討たれてしまったとも伝えられる。それゆえ、与一を祀った社、すなわち与一塚の傍らにある佐奈田霊社(小田原市)と与一が本拠とした真田の真田神社(平塚市)は、痰、咳、喘息などののどや声に関わることに霊験があるといわれている。
 与一の首をとった長尾新六定景は、のちに岡崎義実に預けられた。しかし合戦の翌年には、慈悲深い義実が、与一の成仏のためにも定景をお許しいただきたいと頼朝に願い出たことにより許されることになる。義実にとっては確かに定景は憎い敵ではあるが、彼の経を読む声を聞くたびに怨む心が薄れてきたのだという。この定景は、鎌倉幕府3代将軍の源実朝が鶴岡八幡宮で殺害されたときに、暗殺者の公暁を討ちとることになる人物である。
 与一の死から10年後。頼朝が行った二所(箱根、伊豆)、三島の参詣に関して、伊豆から参詣していた順路を今後は三島、箱根から伊豆へと変更することが決められた。伊豆権現(熱海伊豆山)に詣でるときに、途中の石橋山にある与一と文三家康の墓で頼朝が涙を流してしまうからというのがその理由であった。神社へ参詣するにあたって涙を流すのは忌むべきこと。にもかかわらず頼朝は、与一の死を惜しんで泣いたのだった。
佐奈田霊社敷地内にある県指定史跡「与一塚」(小田原市石橋山)
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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