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源平とその周辺 |2013.02.01

源平とその周辺:第37回 義仲の乳兄弟―兼平と兼光

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 木曽義仲の首が、相模の石田為久によって討ちとられた(伊勢三郎がとったとの説もある)。それを見た今井兼平は、急いで主君のお供をしようと、叫んだ。「よく見るがよい、日本一の剛の者が自害するさまを。見習えよ、東国の者たちよ」。太刀の先を口にくわえ、馬から逆さまに落ちる。自分の太刀に貫かれて、兼平は死んだ。
 一方、樋口兼光(兼平の兄)は、義仲に反旗を翻していた源行家(義仲や頼朝の叔父)を攻めに河内に進軍していたが、行家を討てずにいた。義仲と兼平の死の知らせを受けた兼光は、兵たちに告げた。「命が惜しく、故郷が恋しいものは落ちのびよ」と。兼光自身は都で討死して、冥途にて主君と弟にもう一度会うつもりでいた。さて、京に入った兼光の前に現れたのは、縁故関係にあった児玉党(武蔵国児玉郡を中心とした勢力)の手勢。その児玉党が、彼らの戦功と引き換えに兼光の助命を願い出てくれるという。兼光は、投降して捕虜となった。児玉党から事情を聞いた義経が、後白河法皇に兼光の助命を嘆願する。「さしつかえあるまい」とのお許しが出た。ところが、御所の女房達から不満が続出する。法住寺が攻められたときに、兼光によって略奪行為や衣装をはぎ取られるなどの辱めを受けた女房達だ。その恨みは、深かった。「死罪にせぬとは心外です。生かしておくならば、私たちは尼になります。御所を出ます。川に身を投げます」など、口々に訴える。そして公卿による詮議の結果、死罪と決まった。義仲四天王のひとりといわれた兼光を生かしておくのは虎を飼うような恐れがある、というのがその理由だった。
 義仲や兼平の首が大路を引きまわされ、獄門の木にかけられる。主君の首のお供をしたいと願い出た兼光は、裸足で引き回されて生き恥をさらし、人々に嘲られる。後白河法皇はそれらの様子を、御車を止めて御覧になった。
 兼光、最期の日。渋谷重国(相模国渋谷庄)の郎従が斬り損じてしまった。すると正月20日の合戦で負傷していた子息の高重が、片手で兼光の首を討った、という。
【写真】
今も大規模な堀切と土塁が残る渋谷重国の居城・早川城跡(現在は城山公園)。写真は園内の物見塚(綾瀬市早川城山3-4)
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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