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源平とその周辺 |2013.03.08

源平とその周辺:第42回 義経の凱旋

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 息子の知章に助けられた知盛(清盛の子)は馬を走らせて、海上に待機していた平家の船に救われた。知盛が乗っていた馬は、宗盛(知盛の兄)秘蔵の名馬だったが、混み合う船に馬まで乗せることはできなかった。「敵にとられないように射殺しましょう」と家来が矢で狙うのを、知盛は「誰のものになってもよい。命を助けてくれた馬だ」と制止する。浜辺に泳ぎ着き、船を見ていななく馬。この馬は武蔵国の河越重房(重頼の子)によって義経に、そして後白河法皇に献上された。
 命からがら逃げのびた知盛は、宗盛に述懐する。「子どもが敵に囲まれているのに、引き返しもせずに逃げてきてしまいました。やはり自分の命はよくよく惜しいものなのだと思い知りました」。父であると同時に、平家の軍事指揮官でもある知盛は苦悩する。そう簡単には、死ねない。打撃を受けた平家を立て直す重責もある。それにしても安徳天皇や徳子(安徳の母、建礼門院)、3種の神器が海上にあったのは、不幸中の幸いであった。
 義経が馬を馳せて、少数で都に凱旋してきた。後から入京した範頼とともに、討ち取った平家の首の大路引きまわしを願い出る。だが、朝廷側は拒否。平家は安徳天皇の外戚で朝廷に長く仕えていた一門であるうえに、3種の神器を保有している。刺激するのは得策ではない、というのだ。ところが義経たちは強硬に主張する。「父である義朝は、大路を引きまわされて獄門に懸けられました。法皇様のため、そして父の恥をそそぐために戦ってきたのです。お聞きいれにならないならば、今後どうして朝廷のために戦えましょう」。義仲の首だってさらしたではないか、と考える義経は一歩も引かない。ついに朝廷側は、承諾。身分高き貴公子たちの首が大路を渡されて獄門の木に懸けられた。特に、公卿であった平通盛(清盛の甥)の首までが晒されたことに、都の人々は衝撃を受けた。
 海上の平家は讃岐の屋島へ向かう。家族を亡くして悲しみに暮れる人々を乗せ、船は進む。静かな夜更けに、ひとりの女性が、海へ身を投げた。
【写真】
多くの平家の首が討ち取られた一の谷合戦の跡地に建つ『戦の濱』碑(神戸市須磨区一ノ谷町)
写真提供=須磨観光協会
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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