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源平とその周辺 |2013.03.16

源平とその周辺:第43回 動揺する平家

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【写真】懐妊の身だったことから、祈れば子が授かると伝わる『小宰相の局の墓』(鳴門市鳴門町土佐泊) 写真提供=鳴門市うずしお観光協会
 屋島へ向かう船から身を投げたのは、平通盛(教盛の子)の妻、小宰相。上西門院(後白河の姉)に仕え、宮中一の美人といわれた女性。通盛の従者から通盛戦死の報を受けたとき、小宰相はにわかには信じられなかった。何かの間違いではないか。合戦前夜に彼に懐妊したことを伝えたばかりだ。あんなに喜んでくれていたのに……。思いつめて、夜半に船端へ出る。静かに念仏して、海へ身を投げた。しばらくして引きあげられた彼女は、もうこの世の人ではなくなっていた。浮かび上がらぬようにと通盛の鎧を着せられて、小宰相は再び海へと葬られた。
 さて、朝廷側は三種の神器奪還のために、屋島の平家と交渉を始める。生け捕りにした平重衡(宗盛や知盛の弟)が切り札だ。南都(東大寺など)を焼討ちした重衡。死罪は確実だ。だが三種の神器を都に戻したら重衡は赦す。そう記された院宣と重衡による書状が屋島に届いた。それに対する宗盛の返書は、次のようなものだった。
 「去る2月6日に届いた書状には、『後白河院からの使いが和平の相談のために福原に下向します。使いが京へ戻るまでは狼藉をしてはならぬとの御命令が関東武士に伝えられています。平家の軍にも周知させるように』とありました。この仰せの通りに院の御使いをお待ちしていたところ、関東武士たちが襲撃してきたために合戦となりました。一体どうなっているのでしょうか」。後白河に謀られたのか、関東武士が命令を無視したのか。おかげで通盛以下、多くの平家の人間が殺された。重衡ただひとりが赦されたところで喜べるものだろうか。しかも三種の神器だけを安徳天皇の身から離して都に戻すわけにはいかない。三種の神器が都入りするのは天皇の還御の時だ。平家側の結論はこうだ。「和平も還御も、ともに内容の明確な院宣をいただければ承諾いたします」。後白河への猜疑心は強まるばかりだ。それでも平家は和平を願う。
 一方、重衡は悔いた。自分ひとりの身柄のために三種の神器が返還されるはずもないではないか。平家一門はどう思ったことだろう。申し訳ない。平家に見捨てられた重衡は、鎌倉の頼朝のもとへ送られることになった。
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。
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