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源平とその周辺 |2013.04.05

源平とその周辺:第44回 重衡の東下り

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 一の谷の合戦で馬を射られた平重衡。乗りかえるための備えの馬に乗っていた乳兄弟は、裏切って逃げ去った。重衡は自害しようとしたが生け捕りとなり、朝廷によって三種の神器奪還のための交渉材料として利用される。だが平家方からは拒否の返事。ついに頼朝のもとへ送られることになった。付き添うのは梶原景時。足柄の山を越えて、「こゆるぎの森、鞠子河(酒勾川)、小磯、大磯の浦々」(『平家物語』海道下)を過ぎて、鎌倉に入る。 
 重衡に対面した頼朝は尋ねる。「そもそも奈良の東大寺や興福寺を焼き滅ぼしたのは清盛入道のお考えか、それとも臨時のご処置であったのか。この上ない罪を犯されましたな」。重衡は答える。「清盛入道の決断でもなく、また自分の発意でもなく、不慮のことでありました」――。松明で民家に火をつけさせたところ、折からの風で多くの人々や大仏などを焼きつくして、期せずして仏敵となってしまった。そして続ける。「武士が敵に捕らわれて滅ぼされることは昔からあることです。恥ではありません。早々に首をはねてください」。その堂々とした態度に感心する頼朝。梶原景時も「あっぱれ大将軍や」と、彼を高く評価する。頼朝は伊豆国の狩野介宗茂に重衡を預け、千手の前という女性をお世話役としてそばに遣わせて丁重にもてなした。重衡が頼朝からのお許しを得て沐浴した日には酒宴も催された。平重盛(清盛の嫡男)に仕えていたことがある工藤祐経(のちに曽我兄弟に討たれる人物)は鼓を打って今様を歌い、千手の前は琵琶を弾き、重衡は横笛を吹くという風雅な宴であった。
 清盛と時子に可愛がられて育てられた重衡。人を笑わせたり楽しませたりする気さくな性格で周囲の人々からも好かれていたという。平家滅亡後には東大寺と興福寺の強い要請で奈良に移送され、木津川の河原で斬首されることになる。「牡丹の花」にもたとえられるほど華やかで優雅な重衡の死を、彼を知る人々は悲しんだ。
 さて、大将として出陣するも敗戦続きであった平維盛(重盛の子)は、平家の嫡流であるにもかかわらず、すでに平家一門と行動を共にはしていなかった。光源氏の再来といわれた美貌の貴公子は、一体どこへ消えたのか。
【写真】古代から「よろぎ(ゆるぎ、こゆるぎ、こよろぎ)の磯」と呼ばれてきた大磯「こゆるぎの浜」
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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