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源平とその周辺 |2014.07.25

源平とその周辺 第2部:第29回 大原の建礼門院

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0725 源平 文治3年2月。頼朝は、平家没官領(没収された平家一門の所領)であった摂津国の2か所の荘園を建礼門院徳子(平清盛の娘)に寄進することに決めた。もともとこの荘園は平宗盛が知行していたところで、出家していた建礼門院を援助しようとの頼朝によるはからいであった。
 壇ノ浦で時子(母)と安徳天皇(子)の後を追って入水したにもかかわらず、源氏に引き上げられた建礼門院。東山の麓の吉田の辺りにいたが、大地震によって住まいが崩れ落ちてからは、人目を気にせずに過ごせる大原へと移り住んでいた。ここで、心静かに亡き息子(安徳天皇)をはじめとした平家一門の人々の菩提を弔うつもりだ。『平家物語』には、大原でひっそりと暮らしていた建礼門院(女院)のもとを後白河法皇がお忍びで訪れたとする逸話が載る(大原御幸)。法皇が物寂しげな庵室に入ると、粗末な身なりをした老尼の阿波内侍が出迎えた。そのうちに、濃い墨染めの衣を着た2人の尼が山の細い道を下りてきた。摘み取った花を入れた籠を手に提げているのが誰あろう建礼門院であり、薪に蕨(わらび)を添えて抱えているのは平重衡の妻の大納言典侍であった。建礼門院は、舅の後白河法皇に対して、平家が滅亡へと向かう過程で体験した悲惨な有り様を述懐したという。
 かつて女院に仕えていた建礼門院右京大夫も、大原を訪れたことがある。右京大夫と恋愛関係にあった平資盛(建礼門院の甥)は、既に壇ノ浦で入水して亡くなっていた。『建礼門院右京大夫集』という日記のような歌集には、右京大夫が大原の建礼門院を訪れた様子が記されている。女院を深く思う心を頼りに大原へと向かったが、その侘しい佇まいには愕然としてしまった。平家の栄華を知っている自分には、これが現実のこととは到底信じられない。都では60人余りの女房が、煌びやかな衣服を重ね着してお仕えしていたのに、今は衰えた老尼が3、4人しかついていない。美しかった女院までもが別人かと思われるほどに衰えている。もう何が現実なのか分からない。いったい、今が夢なのか。それとも、昔が夢だったのか――。女院を山奥に残したまま、都に帰るのが心憂く思われた右京大夫であった。
【写真】寂光院(京都市左京区大原)の隣接地にある建礼門院の陵墓、大原西陵(にしのみささぎ)
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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