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源平とその周辺 |2014.09.12

源平とその周辺 第2部:第34回 奥州の藤原秀衡

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0912 源平 秀衡(奥州藤原氏3代目)が義経を援助して反逆している。そうした頼朝の訴えにより、院庁下文が陸奥国に向けて出されていた。その時に関東からも派遣していた雑色(雑用を務める下男)が文治3(1187)年9月に帰参した。彼は報告する。「秀衡は異心がないと弁明してはおりますが、すでに反逆の用意があるようです――」。このような奥州の情勢を言上させるために、今度はその雑色を京へと派遣する。この時期の頼朝は、執拗に朝廷に働きかけていた。以前にも秀衡のもとへ朝廷経由で次のような要求を出していた。ひとつは、鹿ケ谷の陰謀によって奥州へ流されていた中原基兼(後白河法皇の近臣)を京に戻すように、ということ。そして、東大寺再建に充てる金3万両を貢納するように、という要請だ。しかし秀衡の言い分はこうだった。基兼については、こちらが強引に引き留めているわけではなく本人に上京する意思がないのだし、砂金に関しては先例からいっても3万というのは過分であり、近年は多くの商人がきて売買するために大方掘りつくされてしまっているのである。そうやんわりと拒絶されて納得のいかない頼朝は、催促のための使者を遣わすように再び朝廷に働きかける。雑色の報告で明らかになったように秀衡の方に反逆の用意があるとすれば、頼朝にとっては奥州を倒す好機である。けれども一方で奥州の勢力は測り知れないという不安がある。慎重にならざるを得ない頼朝にとって、朝廷を介入させて奥州を刺激し、追い詰めていくのが今のところ得策であるといえた。
 緊迫した情勢のなか、10月29日になって秀衡が平泉の館で亡くなる。秀衡が息子達に言い残したこと。それは「義経(義顕)を大将軍として陸奥国の国務に当たるように」ということであった。家督は長男の国衡ではなくて、正妻の子である泰衡が継ぐことになった。秀衡の死後、頼朝は奥州に対して強硬な態度をとるようになる。朝廷にさらに圧力をかけて、義経捕縛の命令を一度ならず奥州へと伝えさせるのだ。
 奥州藤原氏の最盛期を築き、義経の強力な庇護者であった秀衡。彼は今、ミイラとなって中尊寺金色堂須弥壇の金棺の内に眠っている。
【写真】『三衡画像』(毛越寺所蔵、江戸時代の作品)に描かれている秀衡
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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