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源平とその周辺 |2014.10.24

源平とその周辺 第2部:第39回 信房の勲功

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1024 源平
 九条兼実は貴海島征討に積極的な頼朝を諫める。兼実の意見はこうだ。「三韓(百済、新羅、高句麗)を降伏させた(注・真偽のほどは定かではないが神功皇后が新羅を攻めて百済や高句麗までも従えたという伝承がある。余談であるが中世の縁起類にはその際に高(句)麗から来た者(神)と大磯の高麗山が関連付けられて語られるものもある)のは上古のことであって、今はもはや人の力の及ぶところではありません。あの島の境界に対する、日本古来の慣例や作法については測りかねます。貴海島を攻めるなど、煩いはあっても益はないでしょう。お止めになった方が良いかと思われます」。こうした兼実の助言を受けて、頼朝は貴海島征討を一旦保留することにした。天野遠景のもとへ、しばらく延期するようにとの指示を出す(『吾妻鏡』文治4(1188)年2月21日条)。
 ところが、事態は急展開する。3月5日になって宇都宮信房に恩賞が与えられる次第となった。次のような経緯による。先月頃に信房は、鎮西から書状を頼朝に進上していた。貴海島に渡る件についての様々な情報を報告するものであった。去年島の形勢を探ったことによって海路について知ることができた信房は、それを絵図にしたものを献上した。貴海島征討に関しては誰もが先行きの困難さを感じていたために頼朝に思いとどまるよう忠告をしており、頼朝としても納得しかけていたところだった。けれども、進上された絵図を見たことによって、頼朝の気が変わった。「それほど人に負荷がかかることもないだろう」と判断したのだ。渡海への志を新たにした頼朝。詳細な報告によって頼朝の心を動かし、実行に移す決意をさせた信房は、それゆえ恩賞を与えられることとなったのであった。
 5月17日。天野遠景をはじめとする使節が鎌倉に吉報をもたらした。貴海島に渡って合戦を行い、島内の者達は既に降伏したというのである。なかでも目覚ましい功績を挙げたのは宇都宮信房であった。以後も豊前を中心に勢力を持った信房は、豊前宇都宮氏の祖と言われている。
【写真】信房の供養塔と伝わる、楞厳寺(福岡県京都郡みやこ町犀川木井馬場)境内に建つ五輪塔 写真提供=みやこ町歴史民俗博物館
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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