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源平とその周辺 |2014.01.31

源平とその周辺 第2部:第7回 義経の腰越状

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0131 源平 腰越で時を過ごしていた義経は、頼朝の許しを請うために書状をしたためた。大江広元を通して頼朝にとりなしてもらうのだ。その内容に関しては、要約すると次のようになる。「義経、畏れながら申し上げます。私は勅命を受けた使者として朝敵を倒しましたところ、賞されるどころか思わぬ讒言によって功績を無視されたうえに、ご勘気を蒙って涙に暮れております。讒言の真偽も確かめられず、鎌倉に入れても下さらないので、私は思うところを述べることもできずに虚しく日々を送っています。私は父の義朝が亡くなってからみなしごとなり、諸国を流浪しながら苦労を重ねてきましたが、好機が到来して平家を滅ぼすために命をかけて戦いました。弓矢の武芸に専心するのは、父や兄達の亡魂の憤りを鎮めて年来の宿望を遂げようとするほか他意はありません。また私が五位の検非違使尉に補任されたことは源家にとっての誉れです。それなのに私は今、愁いに沈んで嘆いております」。そして、ぜひ会ってお許しいただく機会を与えてほしい、と記した。広元は頼朝にこの書状を見せたが頼朝からのはっきりとした言葉はなく、「追って考えよう」ということになった。
 さて、捕虜となって連行されてきた平宗盛のもとへ、頼朝からの言葉が比企能員を通して伝えられた。宗盛は居ずまいを正して聞き、「命ばかりをお助けくだされば、出家して仏道に専念したいものです」と卑下する様子で述べた。取次ぎの能員に対して礼を尽くした態度をとる宗盛の様子を、「媚びへつらったところで死罪が許されるわけでもないのに」、と周囲の者達は軽蔑した目で見ていた。
 再び宗盛父子を連れて、義経が京都に戻ることになった。結局、頼朝に対面することも叶わずに、酒匂の宿を発つ。帰洛に際して、義経はこう言い放った。「関東(頼朝)に不満のある者は、自分についてこい!」。これがまた頼朝の逆鱗に触れて、義経に分け与えられていた平家没官領がすべて没収されることを、この時の義経は、まだ知らない。 
【写真】鎌倉市文化財の『義経腰越状』。義経が腰越状を書いた寺として知られる満福寺(鎌倉市腰越2-4-8)に展示されている
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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