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源平とその周辺 |2014.03.14

源平とその周辺 第2部:第13回 景季の報告

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0314源平 頼朝から追討されることになった行家(頼朝や義経の叔父)は画策した。こうなったら、義経と手を組んで頼朝に対抗するしかない――。ちなみにこのころ義経は検非違使に加えて伊予守にも任じられていた。頼朝が4月頃に朝廷に対して義経を推挙していたのが、8月になって皮肉にもこうした結果となったのだった。頼朝にしてみれば義経と不和だからといって、今更朝廷に取り下げてもらうわけにもいかずにそのままとなっていた。
 10月になって、京都に行っていた梶原景季が鎌倉に帰ってきた。彼は頼朝の使者として京都で南御堂供養のための準備を進め、また、平家でまだ配流先に赴いていない人々のことをも差配してきたのだった(義経の舅である平時忠は配流先の能登に下向した)。そしてさらに義経の動静をうかがってきていた景季は、頼朝に報告する。
「最初に伊予守(義経)のもとへ参上したときには、病気だということで会えませんでした。数日後にお会いできたときには本当にやつれた様子で、灸をすえた痕もありました。行家を追討するようにとのご命令をお伝えしたところ、次のようにお答えになりました」。義経曰く、「行家は自分の叔父であり、武芸にも優れている。家人達を遣わしてもそう容易には事が運ばないだろうから、私の病が癒えたら対策を練りたいと思う」。景季の話を聞いた頼朝は「義経は行家に同心しているから病気のふりをしたのだ」と考える。景季の父の景時は言う。「初日ではなく数日後に対面したのですから、その間に食事も睡眠もとらなければ当然やつれます。灸はすぐにでもすえることができますし、そうやって病気であるようにみせかけたのでしょう。義経は行家と手を組んでいるに違いありません」。おそらく義経は仮病を使ってうまく言い逃れようとしたのだろう。そう結論づけられた。
 頼朝は義経を誅殺することにした。ただ、義経に対する同情のためか、あるいは怖れのためか、討手を希望する者がなかなかいない。その時、土佐房昌俊が名のり出た。昌俊は、後に残される老母や赤子の今後のことを頼朝に頼み置く。義経暗殺の使命を帯びた昌俊は、83騎の軍勢を引き連れて鎌倉を発ち、京へと向かう。
【写真】
土佐坊昌俊の屋敷があった地に建つ『土佐坊昌俊邸址』の碑(鎌倉市雪ノ下)
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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