源平とその周辺 第2部:第18回 文治の勅許
頼朝の舅である北条時政が1000騎の兵を率いて京へと入ってきた。朝廷は圧倒される。というのも、このようなやり取りがあったばかりだからだ。鎌倉の頼朝のもとに、高階泰経(後白河法皇の近臣)が使者を遣わした。使者の携えた書状は、「義経らの謀反は天魔のなすところです。義経が、院宣を出してもらえなければ自殺すると言い出したためにその場しのぎに頼朝追討の院宣を渋々出したのであって、後白河法皇の御本心から出たものではないのです」と弁明するものである。頼朝は、天魔のなすところとは解せぬと憤った。天魔とは仏法を妨げて人に煩いをなすものだ。なぜ朝敵を倒した頼朝を反逆人として扱うのか。行家と義経を捕らえなかったために諸国が疲弊して人民が滅亡することになるのであれば、それこそ日本第一の大天狗は後白河法皇の側にある、と激しく非難したのであった。
そうした経緯もあったために、北条時政が義経と行家を追捕する名目で諸国に守護・地頭を置くことを強く要求してきたとき、朝廷は承認せざるを得なかった。ここに至って、頼朝は全国の軍事警察権と兵糧米を徴収する権限を手に入れることになったのである(頼朝が日本国総追捕使・総地頭になったこの文治元(1185)年は鎌倉幕府成立の年であると考えられてもいる。ちなみに1192年は頼朝が征夷大将軍に任じられた年)。
さらに頼朝側は、今こそ「天下草創の時」であるとして、朝廷の内部改革や人事に関する要望を申し入れる。高階泰経をはじめとして義経らの肩を持った者達を解任させて、頼朝追討の院宣を出すのに反対していた九条兼実を内覧(天皇に奉る文書を先立って見る者のことで摂政・関白が行うのが慣例となっていた。この後兼実は摂政となる)とするよう要求する。結果的に、後白河法皇の周辺から義経側の者達を退けて、朝廷内部を親頼朝派で固めることができた。義経らを捜索する命令は畿内近国の国司らに対して既に出されてはいたが、北条時政が入京してから再び両人を捜索するようにとの命令が頼朝に向けて出された。義経は、依然として見つからない。
【写真】北条時政像(日本随筆大成第2期第9巻)
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。
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