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源平とその周辺 |2014.05.09

源平とその周辺第2部:第20回 その後の六代

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0509 源平 「ぜひとも六代の命が助かるよう嘆願して文覚様のお弟子にしてください」と乳母の女房は必死に請う。女房の願いを聞き入れた文覚は、六波羅に出向いて時政に願い出た。「鎌倉殿(頼朝)に六代の命をお助けくださるよう取り計らう間、生かしたままにしておいていただきたいのです」。時政もまた、優美な六代の運命を不憫に思っていた。
 文覚は神護寺復興のための荘園寄進を後白河法皇に強要したかどで、伊豆に流されていたことがある。その時に、流人として同じく伊豆にいた頼朝に挙兵を促した縁もあって、頼朝とは旧知の仲であった。文覚は使者を通して願い出た。「頼朝殿のために心を尽くされた重盛殿(六代の祖父)の功に報いるため、また文覚の面目を立てるためにも、どうか六代の身柄をお預けください」と。六代の父の維盛は富士川の戦の大将軍であるから、誰が助命嘆願をしたとしても受け入れられるのは無理であろうと思われた。当然頼朝は渋った。六代が年を重ねた時に、この自分に対して反旗を翻してくるかもしれないではないか――。けれども使者の僧がひたすら願うので、ひとまず文覚に六代を預け置くことにした。この知らせを聞いた母と乳母の女房は、涙を流して喜んだ。
 その後、頼朝は助命した六代のことをずっと気がかりに思い続け、ことあるごとに文覚に彼の様子を尋ねたという。「六代はどのような様子ですか。以前にあなたが伊豆で私に天下の将軍の相を持つとおっしゃったように、六代も謀叛を起こして敵を滅ぼすような人物でしょうか」と聞く頼朝に対して、文覚は答える。「これは大変な臆病者ですよ」と。用心を怠らぬ頼朝からの厳しい処置を怖れて、六代は16歳で出家することになった。
後の話になるが、文覚は頼朝の死後に朝廷との関係が悪化して流罪となる。六代はというと、高尾の奥の神護寺で静かに修行をする日々を送っていたが、平家の嫡流であるというだけでなく、文覚の弟子でもあったことから警戒され続け、ついに相模国田越河(逗子を流れる川)の端で斬られることになった。一説には30歳くらいまで生きたという。六代の処刑によって、平家の嫡流は断絶した。
【写真】平家最後の直系、六代が眠る『六代御前墓』(逗子市桜山)
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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