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源平とその周辺 |2014.07.04

源平とその周辺 第2部:第27回 西行の旅路

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0704源平 文治2(1186)年8月15日。頼朝は鶴岡八幡宮に参詣した。すると老いた僧がひとり、うろうろと歩き回っていた。「一体誰なのだろうか」――。不審に思った頼朝は、梶原景季にその老僧の名を問うように指示した。老僧は「私は佐藤兵衛尉憲清(義清とも書く)法師です。今は西行と名のっております」と答えた。頼朝は次のように伝えさせる。「参詣をすませてから面会し、和歌のことなどについて詳しく教えていただきたい」と。西行は承諾した。
頼朝はいそいそと御所へ帰る。招いた西行とたくさんの話をしたいと思っていた。それで、歌道や弓馬のことなどについていくつか質問を投げかけた。西行は言う。「弓馬のことに関しては在俗のおりには家風を伝えてきましたが、家に代々伝わってきた兵法の書は出家した時に燃やしてしまいました。罪業の原因になってはいけないと、その内容を全く心に留めておらず、すべて忘れ去りました。歌を詠む件に関しては、花や月に対して強く心を動かされたときに、わずかに31文字を詠むというだけで、奥深いことなどは存じません。そういうわけで、お尋ねの弓馬や歌道の件に関してはお話しできることはございません」。なおも熱心に頼朝が問うので、弓馬のことについて西行は話し始める。頼朝は西行の述べたことを藤原俊兼に書き留めさせた。それは、一晩中続いた。
次の日。頼朝がしきりに引き止めたにもかかわらず、西行は御所を退出した。その際に頼朝は贈り物として銀製の猫を与えた。受け取った西行は、門の外で遊んでいた子供にその銀の猫を与えてしまった。西行は旅の途中であった。彼は、平家の焼き討ちにあった東大寺の復興に関わっており、藤原秀衡に東大寺再建費用としての砂金を勧進(寄付を募ること)するため、奥州を目指していた。西行の勧進の成果か、10月1日になって秀衡から京都に送る貢金450両が、仲介する鎌倉の頼朝のもとに届けられた。実はこの時期、別の理由で奥州を目指す者が西行の他にもいた。義経である。頼朝が警戒し続ける奥州藤原氏の存在感が、日に日に増してきていた。
【写真】
西行が奥州へ向かう旅の途中、「こころなき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮」(『新古今和歌集』)と歌を詠んだとされる鴫立沢(大磯町大磯)
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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