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源平とその周辺 |2014.10.17

源平とその周辺 第2部:第38回 西の境界

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1017 源平
 文治3(1187)年9月22日。貴海島(きかいがしま)には源義経に味方する輩が潜伏している、という疑いがあったために、頼朝は宇都宮(中原)信房(下野国の武士)を追討のために鎮西(九州)へ下向させることにした。貴海島は、貴賀井島・喜界島・鬼界が島などとも表記され、この時代に西の境界として考えられていた地である。ただ鹿児島県の硫黄島かとする説や奄美群島の喜界島かと推定する説もあって判然としない。「鹿ケ谷の陰謀」が発覚して俊寛らが流されたのも、この鬼界が島(この場合は硫黄島か)であった(『平家物語』)。
 さて、この鎮西方面にはすでに天野遠景が奉行人として駐在していた。昔から、貴海島へ船で渡る者はいなかったと言われていた。平家が世を治めていた時代には、勅勘を蒙った平忠景(薩摩国の住人)がこの島に逃亡したときに、その追討のために遣わされた平家貞(平家代々の家人)が軍船で何回か渡海を試みたにもかかわらず、結局風波を凌いで渡り得なかったということもあったようだ。ただ、去年薩摩国河辺(川辺・かわなべ)郡の河辺通綱がこの島に到達したという情報を得ていたこともあり、頼朝は渡海の可能性を感じた。それで今回のことを思い立ったのだった。「貴海島を平定するように」、との使命を帯びた信房は鎮西へと向かう。
 文治4(1188)年2月。天野遠景から鎌倉へ届いた書状には次のようにあった。「昨年の12月に郎従らを貴海島に渡らせて様子をうかがいましたところ、追捕するのに問題はないように思われます。しかし、鎮西の御家人達に催促をしても協力しようとしませんので、まだ無勢です。再び御教書(頼朝からの文書)をお出しになって促してくださいますようにお願いいたします。宇都宮信房は自らが海を渡ろうとして準備をしていたのですが、私が抑止しましたので、信房は親類らを遣わしました。彼らはこの上ない精兵です」と記されていた。
 貴海島征討に意欲を燃やす頼朝。この件に関しては、京都でも以前から取り沙汰されているところであった。貴海島を攻める必要性が本当にあるのか――。摂関家の九条兼実は難色を示し、頼朝を諫めるのであった。
【写真】
信房が山頂に「神楽城」を築いたとされる神楽山(福岡県京都郡みやこ町)
写真提供=みやこ町歴史民俗博物館

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