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源平とその周辺 |2015.01.23

源平とその周辺 第2部:第47回 義経の最期

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さて、弁慶が千振の太刀を集めていたという話。義経が父義朝の孝養のために平家千人斬りを行っており、それを聞きつけた弁慶が五条の橋にやってきたのだという伝えもある(『橋弁慶』など)。ともあれそうした経緯で義経の従者になり、献身的に仕えた弁慶も、とうとう平泉で果てた。『吾妻鏡』によると、義経は衣川館の持仏堂に入り、まず妻と4歳の娘を殺してから自害した。31歳だったという。
今回も『義経記』を中心にみていこう。瀕死の義経は最後の力を振り絞って手を伸ばし、妻子を抱えこむような形で息絶えた――。そうして、彼らの死を見届けた十郎権頭(ごんのかみ)兼房という老武者が、一人で敵に立ち向かっていく。兼房は、『義経記』のなかで義経の妻(北の方)の乳人(めのと・守り役)として描かれる人物である。実際には義経の正妻というのは河越重頼の娘であったのだが、この物語では義経の妻は久我大臣(こがのおおい)の娘(姫)という設定で語られる。孤軍奮闘した兼房の壮絶な最期は物語中で胸を打つ場面だ。敵将である長崎太郎を斬りつけ、そしてまた兄を討たせまいとして向かってきた次郎をつかんで馬から引きずりおろす兼房。次郎を脇に挟み込み、道連れにして燃え盛る火のなか目がけて飛び込んでいく。兼房にがっちりと捕らえられた次郎には、老いた武士に対しての油断があったのかもしれない。恩賞をもらえることを期待して戦いを挑んだはずが、かえって炎のなかに連れ込まれる事態となってしまった。
この兼房の勇壮ぶりに思いを馳せて後の世に句を詠んだのが、松尾芭蕉に随行していた河合曾良である。「卯の花に兼房見ゆる白毛(しらが)かな」。白い卯の花に兼房を偲ぶ。ちなみに芭蕉は、この平泉の地で滅びた義経らを思いやり「夏草や兵どもが夢の跡」という句を残している。『奥の細道』に記される逸話である。
さて、5月。奥州の藤原泰衡からの使者が鎌倉に到着した。義経を誅殺したこと、その義経の首を追って進上することなどを報告する。鎌倉では翌月に鶴岡八幡宮寺の塔供養を予定していた。義経の死によって穢れが生じたことを、頼朝は気にした。
【写真】
曾良の句碑がすぐそばに建つ「卯の花清水」(岩手県西磐井郡平泉町平泉)。かつてここでは水が湧いており、いつしかそのように呼ばれるようになったという
写真提供=両磐地区広域市町村圏協議会
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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