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源平とその周辺 |2015.03.06

源平とその周辺 第2部:第52回 いざ出陣

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0306 源平
 奥州へ向かう軍勢が三手に分けられることになった。東海道を進む軍は、千葉常胤や八田知家が一族らと常陸、下総の武士達を引き連れて阿武隈川を渡り、本隊に合流する予定である。北陸道を進む軍は、比企能員や宇佐美実政らが上野国の武士達を動員して、越後国から出羽国念珠が関(越後と出羽の国境)に出て合戦をする。そして頼朝自らは大手軍として中路を進軍する。その先陣は畠山重忠が務めることになった。
 7月19日。大手軍の出陣を前に、梶原景時が頼朝に提案をした。「城長茂(助職、資職)は勇士です。囚人の身ではありますが、御供として連れていかれてはいかがでしょうか」。頼朝は承諾した。城長茂とは、信濃国横田河原(千曲川左岸の河原。後に川中島と呼ばれる辺り)で、平家方として戦って木曽義仲軍に大敗した人物である。『平家物語』によれば、長茂は越後、出羽、会津の兵で構成された4万余騎の大軍を率いており、対する義仲は3千余騎。義仲方は軍勢を七手に分けて赤旗(平家方を意味する)を掲げて接近。そこでいきなり一手にまとまり、白旗を一斉に上げて攻めかかるという、井上光盛による謀略を用いて長茂軍を翻弄し、勝利を収めた。長茂方の兵は、川に追い込まれたり崖に追い落とされたりして、多くが討たれてしまった。長茂自身も命からがら越後へと退くことになり、そうして今は梶原景時のもとに身柄を預けられているという状況であった。景時は奥州に進発するにあたって、この長茂を起用することを頼朝に進言したのだった。従軍の赦しを得て、長茂は喜んだ。そして、囚人である自分に旗を賜りたいとの旨を伝えたところ、長茂自身の旗を用いてよいとの許可も得られた。長茂は思う。「この旗を見たら、逃げて散り散りになっていた郎従達もきっと集まってくることだろう」――。
 いよいよ大手軍である千騎が、鎌倉を発つ。下野国の宇都宮神社で奥州征討の祈願をし、さらに新渡戸(那須郡)へ。段々と奥州に近づいてきた。そこで頼朝は軍勢を把握するため、御家人らに手勢を報告させる。そして驚いた。城長茂のもとには、なんと二百人以上もの郎従が集結しているというではないか。
【写真】長茂が築いた城の1つとされる、国指定史跡「陣が峰城跡」
(福島県河沼郡会津坂下町)写真提供=会津坂下町
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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