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源平とその周辺 |2015.04.10

源平とその周辺 第2部:第54回 阿津賀志山の要害

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0410 源平
 明朝に攻撃することが決まったものの、阿津賀志山と、頼朝軍のいる国見の宿との間には大規模な二重の堀が構えられていた。その幅、5丈(約15メートル)。その上、そこには阿武隈川の水が引き入れられている。これがあってはどうにもしようがない。畠山重忠は、率いてきていた人夫80人を召した。そうして彼らに、事前に準備してきていた鋤や鍬を用いて土砂を運ばせ、この堀を埋めさせたのであった。これで、前途を阻むものはなくなった。阿津賀志山を目指して、人馬もやすやすと通過して突撃することができる。畠山重忠という人物は、それだけ思慮深い男であった。
 8月8日。奥州藤原氏の側では、西木戸国衡(泰衡の異母兄)が大将軍として指揮をとっていた。その勢2万騎。その国衡方のうち、金剛別当秀綱の率いる数千騎が、阿津賀志山の前に陣取る。頼朝は、畠山重忠や結城(小山)朝光(ともみつ)らを遣わして矢合わせを始めた。矢合わせというのは、戦を開始するにあたって、敵と味方が互いに矢(多くの場合、飛ぶ際に音の鳴る鏑矢(かぶらや))を射かわして開戦を通告し合うことである。さあ、いよいよ頼朝方の大軍が攻め寄せていく。秀綱らは、防戦はしたものの、結局持ちこたえられずに退却。秀綱は大木戸(城門)へと駆け戻って、戦いに敗れたことを国衡に報告する。
 さてその日の夜、頼朝は決定を下した。明朝に阿津賀志山を越えて、戦を行うことにする――。するとこれを受けて、密かに出発した者達がいた。三浦義村や葛西清重などの7騎である。先陣を任されている畠山重忠の陣を追い越して、ということになる。彼らの目的は、今から阿津賀志山を越えてさらに先へと進むこと。もし夜が明けてから大軍とともに出ていったとしたら、険しい山を越えるのは困難を極めるであろう、というのがその理由であった。こうして三浦義村らは、先駆(さきが)けをするために出立した。重忠の郎従が、この異変に気づいた。主人である重忠が先陣を務めることになっているのに、これは見過ごせない事態だ。主人に、忠告しなくては。
【写真】国指定の史跡でもある阿津賀志山防塁跡。地域の子どもたちも元気よく駆け上る(福島県伊達郡国見町)
写真提供=国見町

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