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源平とその周辺 |2016.04.08

源平とその周辺 第2部:第75回 花の下(した)にて

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0408 源平
 1190(文治6)年2月16日。河内の弘川寺において一人の歌人が亡くなった。西行(俗名・佐藤義清(のりきよ))である。陰暦2月15日というのは釈迦の入滅した日で、釈迦追慕のための法会である涅槃会(ねはんえ)が行われる日にあたる。この時期の西行の死は周囲の人々に衝撃と感動を与えた。というのも彼が生前に詠んでいた歌の通りになったからである。その歌というのは、「願はくは花の下(した)にて春死なむ そのきさらぎの望月の頃」というもの。桜の下で春、死にたい、満月の2月15日の頃に――。桜に惹かれ続け、その想いを数多くの歌に詠んできた西行らしい願いの表出した歌である。桜が咲き、月が輝く美しい情景のなかで自分は死にたい……。と思ってはみても実行するのは困難である。願い通りに遂げられた往生に、交流のあった藤原俊成や定家、慈円などは深く感じ入り、その追悼の思いを綴る。
 「願はくは」の歌について、西澤美仁氏は「花の真下から月を見上げる、花を通して月を見る」のと同時に「上から花を見る月の視点が用意され」ており、「月と一緒に花を見る」ということを示したかったのだろうとする。また花の「下(もと)」ではなく「下(した)」とするところに「和歌的表現が西行的表現に変わる瞬間」が読み取れると指摘する(『西行 魂の旅路』〔ビギナーズ・クラシックス日本の古典〕角川文庫)。ちなみに西行の死後編纂された『新古今和歌集』に彼の歌は一番多く入集しており、また後鳥羽院から「生得の(生まれながらの)歌人」と評価されてもいる。
 西行は平清盛と同じ年の生まれで、藤原秀郷(関東で反乱を起こした平将門を討伐。俵藤太としても知られる)の流れを汲む武士の家の出身である。西行と清盛は共に鳥羽院の北面の武士でもあった。また西行は、東大寺再建の勧進のため奥州藤原氏のもとへと向かう際に鎌倉で頼朝とも会見している。この時頼朝は、西行が受け継いだ秀郷流の兵法を積極的に聞き出そうとしたという(第2部27回に既述)。時の権力者達と接触し、諸所を遍歴して歌を詠んだ西行。今なお様々な伝承と共に在って、人々を惹きつける特別な存在である。
【写真】西行終焉の地、弘川寺(大阪府南河内郡河南町)。行基や空海もここで修行したと伝えられている
写真提供=河南町
著者:新村 衣里子

元平塚市市民アナウンサー。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学講師。

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