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源平とその周辺 |2012.07.13

源平とその周辺:第13回 相模国府にて初めての恩賞

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〈(頼朝は)相模国府にお着きになり、初めて勲功に対する恩賞を行われた。(中略)(三浦)義澄は三浦介に、(下河辺)行平は元の通り下河辺庄司となるように命じられたという。〉『吾妻鏡』(引用文献 『現代語訳 吾妻鏡』五味文彦・本郷和人編 吉川弘文館)
 頼朝は千葉常胤・三浦義澄、上総広常らの意見を受け入れて、富士川の合戦で敗走した平家軍を追って上洛することをやめ、まず東国の地の平定に専念することにした。黄瀬川において弟の義経と対面を果たしたのち、頼朝は鎌倉へと向かう。
 その帰途の10月23日。頼朝は相模国の国府において、武士たちの勲功に対して初めて恩賞を与えている。論功行賞にあずかったのは、旗揚げ以来活躍してくれた北条時政や武田信義、和田義盛、土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実、佐々木兄弟などの武士たち。新たな土地をほとんど得ていなかったため、本領の安堵(従者の所領支配を認めること)が中心となった。そして、三浦義澄は三浦介(三浦一族の総領。相模国の政治を行う官僚)に、下河辺行平は元の通り下河辺庄司(下総国葛飾郡の広大な荘園の現地責任者)となるように命じられた。
 そしてまた、平家に味方した東国の武士たちには処罰が下された。といっても石橋山の合戦に関係する残党に対しては、処刑されたのはわずかであったという。厳しい処罰が下ったのは、石橋山合戦において頼朝を敗走させた大庭景親。捕らわれてこのとき相模国府に連れてこられていた。彼は、上総広常に身柄が預けられ、数日後に固瀬川(片瀬川)で首を討たれてさらされた。その一方で、真田(佐奈田)与一と死闘を繰り広げた俣野景久(景親の弟)は、平家に味方しようと密かに上洛する。景久は平維盛軍に合流したのち、木曽義仲軍と俱利伽羅峠で戦うが大敗し、自害することになる。
 この論功行賞は、もともと武士たちが所有していた所領を、新たなる権力者の頼朝が認めることに意味があった。頼朝が、挙兵以来の武士たちの功に対する初めての恩賞を相模の国府で行ったということは、東国に政権を確立して地盤を固めていくなかで、この相模国の政治の拠点を非常に重要視していたといえる。
【写真】相模国府があった地域に建つ相模国総社「六所神社」(大磯町国府本郷935)

新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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