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源平とその周辺 |2012.07.27

源平とその周辺:第15回 福原の都―そしてまた京都へ

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〈同じく(治承4年)福原に、十一月十三日、内裏造り出だして、御遷幸あり。この京は北は山そびえて高く、南は海近うして低ければ、波の音つねにかまびすしく、潮風はげしき所なり。(中略)今度の都遷りは、君も臣も御嘆きあり。山門(比叡山)、南都(興福寺)をはじめて、諸寺、諸山にいたるまで、しかるべからざるよし一同にうつたえ申す〉『平家物語』(引用文献 『平家物語』水原一校注 新潮日本古典集成)
 富士川の合戦で敗走した平家軍の大将、維盛(清盛の嫡孫)は都に逃げ帰った。清盛は、激怒した。大将がおめおめと都にもどってくるとは何事か、というのである。清盛は、「維盛を鬼界が島(鹿が谷の陰謀の発覚で俊寛らが流された島。薩南の硫黄島)へ流し、侍大将の忠清は死罪にせよ」と憤る。そんな清盛に、平家重臣の平盛国は、こう申し上げるのだった。「忠清が18歳のとき、鳥羽殿の宝蔵に悪党2人がこもったことがありました。誰も自分から捕まえようと言いだす者がいなかったところ、忠清はただひとりで向かっていき、1人を討ちとり、1人をからめとって後々まで名を挙げた者です。今度の不覚はただごととも思えません。この天下争乱に対する慎重な対応(軍事・政治的対策や祈祷など)をなさいませ」と。天下は、動きはじめていた。
 さて実はこのとき、都は福原(神戸市)にあった。日宋貿易の拠点となる港の大輪田泊も近い。交易に有利な土地に都をつくるのが、清盛の理想だった。しかし、6月に強行された福原への遷都は、人々を混乱に陥れていた。この遷都に関しては反対するものが多く、平家一門の中からも否定的な声が上がったという。建設中の福原京に鴨長明も足を運んだことが『方丈記』には記されている。そこで長明が見たのは、土地が狭く、建てられている家もまことに少ないという都の状況。
 11月に落成した新たな内裏に、安徳天皇(高倉上皇の子。母は清盛の娘の徳子)が遷幸した。けれども京都へ都を戻すべきだという意見の多さに、無理を押しとおしたさすがの清盛も折れた。還都の行列は11月26日、京都に到着。都は京都に戻されたのだった。美濃・尾張の源氏に続いてこのころ、都の近くでは近江源氏がすでに蜂起していた。
【写真】
福原遷都当初、安徳天皇の行在所(仮の皇居)として使用された荒田八幡神社に建つ「史蹟 安徳天皇行在所址」の碑(兵庫県神戸市兵庫区荒田町3-99)
写真提供=神戸市兵庫区

新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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