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源平とその周辺 |2012.08.17

源平とその周辺:第17回 墨俣川の合戦—行家敗走、義円死す

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〈武衛(源頼朝)の叔父の(源)十郎蔵人行家・子息蔵人太郎光家・同次郎(行頼)、卿公(きょうのきみ)と号する僧義円、泉太郎重光等が、尾張・参河(みかわ)両国の武士を伴い、墨俣河の辺りに陣を張った。平氏は大将軍頭亮(とうのすけ)(平)重衡朝臣・左少将(平)維盛朝臣・越前守(平)通盛朝臣・薩摩守(平)忠度朝臣・参河守(平)知度・(略)・左兵衛尉盛久等が、また同河の西岸に陣を張った。〉『吾妻鏡』(引用文献 『現代語訳 吾妻鏡』五味文彦・本郷和人編 吉川弘文館)
 清盛が亡くなる少し前の1181年1月。平宗盛(清盛の3男。時子の長子)が畿内近国の惣官職についた。これにより、平家の軍事体制が強化される。そして宗盛は、清盛亡きあとの平家一門を統率する立場となる。
 3月10日。美濃国の墨俣(岐阜県大垣市)で、源平軍の合戦が始まった。墨俣は、木曽川、長良川、揖斐川の合流した、尾張と美濃の境にある東海道の要衝である。源氏側は、頼朝の叔父の行家。そして頼朝が援軍として派遣した、義円(義経の実兄)など。平家軍30,000余騎にたいして源氏軍は6000余騎。平家の大軍が源氏軍に襲いかかり、源氏軍は敗北する。行家はなんとか生きのびて敗走したが、義円は深入りして討たれてしまった。
 頼朝の叔父の行家(為義の10男)は、いろいろと渡り歩いた人物だ。幼いころ、熊野別当に嫁した姉に預けられて新宮におり、保元の乱での処刑をまぬがれていた(保元の乱に敗れた父の為義は、兄の義朝に処刑されている)。そして、以仁王(後白河の皇子)が平家打倒計画を立てたときには、平家追討の令旨を各地の源氏に伝える使者となる。ただ、以仁王の計画は事前に平家方に露見してしまう。密告したのは、新宮の行家の動きを怪しんだ熊野の別当湛増(姉妹が平忠度に嫁いでいた)だと『平家物語』は伝える。ちなみにこの熊野の湛増はのちに源氏方につき、熊野水軍を率いて義経に味方して平家を滅ぼす重要人物である。
 以仁王の令旨をきっかけに、頼朝や義仲(頼朝のいとこ)らも平家打倒の旗を挙げることになるのだから、行家の果たした役割は大きい。しかし、頼朝のもとでつれなくあしらわれ、次に義仲とともに組むが最後には不和となり、義経に近づくも、最終的には頼朝に追討されて和泉国で捕らえられ斬首されることになる。
【写真】墨俣川の合戦が行われた地に建つ「史跡 源平墨俣川古戦場」の碑(岐阜県大垣市墨俣町)
写真提供=大垣市

新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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