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源平とその周辺 |2012.08.24

源平とその周辺:第18回 木曽義仲の快進撃

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〈源氏の木曽冠者義仲主は、帯刀先生(源)義賢の二男である。義賢は、去る久寿二年八月、武蔵国の大倉の館で、鎌倉の悪源太(源)義平主に滅ぼされた。その時、義仲は三歳の幼児であった。乳母の夫である中三権守兼遠は、義仲を抱いて信濃国の木曽に逃れ、義仲を育てた。成人した今では、武勇の素質を受け継ぎ、平氏を討って家を興そうと考えていた。そこで、前武衛(源頼朝)が石橋で既に合戦を始めたと耳にし、すぐに挙兵に加わり念願の意志を表そうとした。〉『吾妻鏡』(引用文献 『現代語訳 吾妻鏡』五味文彦・本郷和人編 吉川弘文館)
 源行家が以仁王の令旨を伝えた源氏のなかに、木曽(源)義仲がいた。頼朝や義経のいとこである。義仲がまだ幼かったとき、父の義賢(義朝の弟)が武蔵国大蔵館(埼玉県比企郡)において殺されるという事件があった。襲撃してきたのは、義平(義朝の長男で、頼朝の兄)。原因は、北関東で勢力をのばしていた義賢と、南関東で力をつけていた義朝、義平父子との東国での勢力争いにあった。命が危うくなった遺児の義仲は、畠山重能と斉藤実盛の助力によって信濃国木曽の豪族である中原兼遠に預けられた。そして、兼遠の子である樋口兼光、今井兼平、巴御前などと一緒に成長する。
 義仲は1180年8月の頼朝挙兵に続いて9月に信濃国で挙兵。翌年6月に北信濃の横田河原で越後国の城氏を破る。義仲のもとには墨俣川の合戦で敗走した行家や、鎌倉の頼朝を攻撃しようと企てて敗れた志田義広などの叔父たちが頼って身を寄せた。そして互いの父同士がそうであったように、頼朝と義仲との関係は悪化していた。だが、平家追討を前に源氏同士の争いを避けるべく、義仲は子の義高を頼朝の娘大姫の婚約者として(実際は人質として)差し出すという苦渋の決断をする(のちに義高は殺される)。関東をあきらめた義仲は、北陸道からひたすら都を目指すことになったのだった。そして次なる決戦の地、倶利伽羅峠へと向かう。平家の大将軍には、維盛(清盛の孫)。『平家物語』によると、義仲を討伐するために10万余騎の大軍を率いて北陸に進軍してきていた。
【写真】源平両軍の犠牲者を供養するため、倶利伽羅合戦の古戦場跡に建てられた高さ6.8mの五輪塔 『源平供養塔』(富山県小矢部市)
写真提供=小矢部市

新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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