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源平とその周辺 |2012.08.31

源平とその周辺:第19回 義仲の奇襲、倶利伽羅落とし

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〈五月の空の癖なれば、朧に照らす月影夏山の木下暗き細道に、源平互に見え分かず。平家は夜討もこそあれ打ち解け寝ぬべからずと催しけれども、下疲(くたび)れたる武者なれば、鎧の袖を片敷き兜の鉢を枕とせり。源氏は追手搦手様々用意したりける中に、樋口次郎兼光は搦手に廻りたりけるが、三千余騎其の中に太鼓・法螺貝千ばかりこそ籠めたりけれ。木曽は追手に寄せけるが、牛四五百匹取り集めて角に續松(たいまつ)結ひ付けて、夜の深くるをぞ相待ちける。〉『源平盛衰記』(引用文献 『新訂源平盛衰記』學生文庫 至誠堂書店)
 『源平盛衰記』によれば、10万余騎(軍勢の数は物語では誇張される)で攻めてきた平家軍は二手に分かれていた。平維盛(清盛の孫)を総大将とする7万騎の追手軍は砺波山(倶利伽羅峠)へ。平通盛(清盛の甥)、知度(清盛の6男)率いる搦手軍は能登国の志雄山(志保山)へ。対する源氏軍は、約5万騎の軍勢を7つに分けた。3万騎率いる義仲本隊と樋口兼光、今井兼平、巴御前などが率いるそれぞれの隊が砺波山へ。そして搦手の志雄山には、源行家(義仲の叔父)が1万騎を率いて向かった。
 越中(富山県)と加賀(石川県)の境にある、北陸道の交通の要衝、砺波山。「谷深うして山高く、嶮難にして道細し。馬も人も行き違ふこと輙(たやす)からず」とされる地だ。義仲の考えた作戦は、平家軍を囲んで夜襲をかけること。平家方が寝静まった夜、攻撃を開始。400~500頭の牛の角に松明を結いつけて急襲した、ともいわれる(史実かどうかは判然としない)。慌てふためいた平家方は、「弓取る者は矢をとらず、矢をば負へども弓を忘れ、鎧を着て兜をきず、太刀一には二人三人取り付き、一弓一張には四五人つかみ付けり」という有り様。暗いなか大混乱に陥った平家軍は、三方から取り囲んだ義仲軍が唯一兵を置かなかった方角、南へと逃げるしかなかった。そこには、深い谷が口を開けて待っていた。次々に谷へと落ちてゆく人々。この谷の異名は、地獄谷。追い落とされた平家軍の死骸は、谷に満ち満ちたという。大将維盛は危ういところを助かって退却した。
 志雄山にいた行家率いる軍は、負け色が濃かったが援軍を得て持ち直す。義仲軍は勢いを得て勝ち進み、向かうは加賀国篠原。幼い義仲が殺されそうになったときに大蔵館から救い出してくれた恩人、斎藤実盛が敵方維盛軍にはいた。
【写真】「火牛の計」にちなんで、倶利伽羅古戦場跡に設置された「火牛の像」(富山県小矢部市)
写真提供=小矢部市

新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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