カテゴリーから選ぶ
カテゴリーから選ぶ
源平とその周辺 |2012.07.20

源平とその周辺:第14回 頼朝の佐竹攻め

タグ
〈(1180年10月27日。頼朝は)常陸国に向けて出発された。これは佐竹冠者秀義を追討するためである。〉『吾妻鏡』(引用文献 『現代語訳 吾妻鏡』五味文彦・本郷和人編 吉川弘文館)
 10月23日に相模国の国府で論功行賞を行った頼朝は、25日に松田御亭に寄る。この松田御亭は、中村庄司宗平(相模国余綾郡中村庄。土肥実平、土屋宗遠らの父)が頼朝の御命令を受けて日ごろから修理を加えてきたもので、かなり大規模な屋敷だった。もともとは、頼朝の兄の朝長が、母の実家である波多野氏の領内に設けた屋敷である。
さて、27日。頼朝は常陸国の佐竹氏を討つために、出発した。この日は陰陽道で慎むべきとされた御衰日という悪い日なのに、である。人々は首をかしげた。頼朝の言い分はこうだった。「去る4月27日に以仁王の令旨が到着したことから東国を支配するに至っており、日柄を気にするには及ばない。むしろ追討を行うということについては、27日を用いるのがよい」というのだ。そして11月4日に常陸国府(茨城県石岡市)に到着する。
まず、佐竹氏の縁者である上総広常が佐竹義政をおびき出したのち、殺害。佐竹秀義は、父の隆義が在京中で平氏に味方しているということもあり、金砂城(常陸太田市)に引きこもる。秀義を攻撃するために遣わされたのは、下河辺庄司行平、土肥実平、和田義盛、土屋宗遠、熊谷直実などの武士たち。数千の強い兵を率いて向かった。しかし、金砂城が高い山の頂に構えられていたために、難渋する。土肥実平と土屋宗遠は、この要塞は人の力では破れない、と頼朝に使者を送った。そこで上総広常が提案したのは、佐竹秀義の叔父の義季を内応させること。広常の案の通り、頼朝方に内通した義季の手引きで城の背後にまわって攻撃したところ、ついに城は陥落。秀義は花園城(北茨城市)へ逃げたという(のちに頼朝に帰順する)。頼朝は秀義の所領を没収し、軍功のあったものに恩賞として分け与えた。
佐竹氏は、源義家の弟の新羅三郎義光の子孫。つまり源氏の血をひく一族である。にもかかわらずなぜ攻められたのか。佐竹氏が奥州藤原氏と姻戚関係にあったこと(頼朝は奥州藤原氏を警戒していた)や、頼朝に味方した千葉氏や上総氏との間で土地の領有権問題で対立していたことなどがその理由として考えられている。
【写真】金砂城があった西金砂山の頂上に建つ「西金砂神社」(常陸太田市上宮河内町1915)写真提供=常陸太田市観光物産協会

新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

タグ
facebookシェア twitterシェア lineで送る
オンラインマガジン

湘南ローカル情報を日々更新中!

いますぐ使える 最新クーポン

色々な所で使えるお得なクーポンを発行中!

その他のクーポンをもっと見る
湘南ジャーナルDB 湘南のお店情報をまとめて掲載!
湘南ジャーナル まちナビ 最新情報

湘南のお店情報をまとめて掲載!

スタッフブログ

編集部情報を毎週更新でお届けします。

運営からのお知らせ

PAGE TOP