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源平とその周辺 |2012.10.05

源平とその周辺:第23回 平家都落ち

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 木曽義仲は、比叡山を味方につけて都を目指す。平家方もこれを迎え撃つ軍を派遣するが、源氏軍が都へ入ってくるのはもはや防ぎようのない事態となった。平家一門の総帥である宗盛はこう考えた。安徳天皇や後白河法皇をお連れして都を出て西国を目指し、再起を図ろう、と。都落ち決行の前夜、宗盛は妹の建礼門院(安徳天皇の母)に「木曽義仲の軍勢が迫っています。平家も、もはやこれまでです」といって、都落ちの決意を述べた。
 ところが、大変なことが起きた。事前に都落ちの情報を察知した後白河法皇が、ひそかに法住寺の御所を抜け出して鞍馬へと脱出していたのだ。そして源氏に味方する比叡山に入る。寿永2(1183)年7月25日。法皇の不在に気づいた都は大騒ぎとなる。法皇のこの行為は平家を見限った、というだけでなく、平家が朝敵とされるかもしれないことをも示していた。宗盛は慌てた。大失態だった。取り急ぎ、6歳の安徳天皇と建礼門院を御輿にお乗せして出立する。そのとき平時忠が指示したのは、3種の神器や時の札(時刻を示す札)などを都から持ち出すこと。天皇の正統性を証明するこれらのものが、今後朝廷との交渉材料に使われていく重要なアイテムとなる。「平家にあらずんば人にあらず」と豪語した時忠の、平家としての先を見据えた賢明な処置であった。
 また、大将として臨んだ富士川や北陸の戦いで敗戦続きだった平維盛も、都落ちを決意。妻子と悲しみの別れをする。維盛は清盛の嫡孫である。都に残していく嫡子六代の今後が気にかかる。ただではすまされまい。維盛は、斎藤五と斎藤六に六代を託した。この2人は、亡き実盛の息子たち。これ以上頼りになる者たちはいない。
 平家は、邸のあった六波羅や西八条などに火をかけて、都をあとにした。黒煙が天に満ちて、日の光も見えないほどであった。平家一門が次々と都落ちしていくなか、まだ都でやり残したことのある平家の者たちが、いた。
【写真】梅小路公園内に建てられている「平清盛公 西八条第(にしはちじょうてい)跡」の石碑(京都市下京区観喜寺町56-3) 写真提供=京都市都市緑化協会
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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