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源平とその周辺 |2012.10.12

源平とその周辺:第24回 平家、それぞれの思い

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 平家一門が都落ちするなか、平忠度(清盛の末弟)は京へと引き返した。鎧を身につけたまま訪ねたのは、和歌の師匠である藤原俊成の邸。門内では落人が引き返してきたと大騒ぎになるが、忠度であると相手方に分かって、俊成と対面することができた(門内に入れてもらえなかったという説もある)。忠度は言う。世の中が安定したら、勅撰集(天皇の命令によって編纂される歌集)が編まれることになるであろう。その時には1首なりともお情けで加えていただきたい、と。そして懐中から巻物を1つ取りだす。歌人として秀でていた忠度は、死を前にして俊成に悲願を託したのであった。俊成は、入集を約束する。のちに世が静まって『千載和歌集』が編纂されたとき、忠度の歌が採用された。ただ、朝敵となっていた平忠度の歌は、作者が「読人知らず」とされた。
 平経正(清盛の弟経盛の嫡子)も、都落ちに際して寄るべきところがあった。詩歌管弦に優れた彼は、琵琶の奏者として有名だ。義仲討伐のために北陸に向かう途中の琵琶湖の竹生島で琵琶を弾じたところ、竹生島の明神が感にたえかねて、経正の袖の上に白龍となって姿を現したというほどの腕前である。経正が赴いたのは仁和寺。幼いころに稚児として仁和寺の覚性法親王(鳥羽法皇の子)に仕えていた経正は、「青山(せいざん)」という琵琶の名器を賜わっていた。その琵琶を、仁和寺の守覚法親王(後白河法皇の子)に返上しにいったのだ。経正は言う。名残は惜しいが田舎の塵に埋もれさせてしまうのは勿体ない、もし平家の運命が開けて都に帰れることがあれば、そのときにはどうか再び私に青山をお与えください、と。
 文化人として知られる忠度と経正は、大切な人に別れを告げて都を離れた。そのようななか、ただ1人、平家の赤旗を切り捨てて都へ引き返した者がいた。平頼盛。母(池禅尼)が清盛にかけあって頼朝の命を助けた縁で、頼朝と接触があった。
【写真】 琵琶湖に浮かぶ竹生島(滋賀県長浜市早崎町竹生島) 写真提供=長浜観光協会
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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