カテゴリーから選ぶ
カテゴリーから選ぶ
源平とその周辺 |2012.10.26

源平とその周辺:第26回 東国における頼朝

タグ

 頼朝が、佐竹氏を討伐したあとに力を入れたこと。それは、東国において新しい政権をつくるための基礎を確立することだった。鎌倉にある大倉御所を政権の場として機能させ、御家人たちとの結びつきを強めたのだ。御家人たちの統制機関である侍所も設け、その別当(長官)に和田義盛を任じた。
 主従関係を明確にし、自分が東国の権力者であることを知らしめることが大切だと、頼朝は考えた。1181(養和元)年7月、鶴岡若宮の社殿の上棟式でのこと。御家人たちが居並ぶ中、大工に褒美として与える馬を義経に引くよう頼朝は命じた。義経が、馬の下手を引く者がいないと辞退すると、頼朝は怒ってこう言った。「畠山重忠や佐貫広綱がいるのにどうして人がいないなどと言えるのか。この役目を卑しいと思って渋っているのか」と。義経は恐れ入って馬を引いた。頼朝の弟であるという自負があった義経は、自分が家臣として位置づけられているということを思い知らされた。
 東国で政権の基礎を固めていくと同時に、頼朝は都の後白河法皇に密かに働きかけてもいた。1181年に頼朝は次のように提案する。「私は後白河院に対する謀叛の心はなく、君の御敵を討つために兵を挙げました。平家を滅亡させないならば、君は昔のように源氏と平氏を相並べて召しつかうべきです。関東は源氏の、西国は平家の支配として、それぞれの地の国司は朝廷が補任する。もし関東で乱が起これば源氏に、西国で乱が起これば平氏に討伐を仰せつけください。そして源氏と平氏のどちらが王化を守り、君命に忠実であるかを御覧頂きたい」。せめて東国の支配権だけでも承認してほしい、そしてまた、何としても賊軍から脱却をはかり、官軍として認められたいという、頼朝の和平案。公家たちには好意的に受け取られたが、平宗盛は拒絶した。和平交渉、決裂。依然、頼朝は逆賊のまま。だが、2年後の1183年、状況が一変する。義仲が入京するに至って、たちまちに平氏は賊軍に、源氏は官軍になった。しかし頼朝は、すぐに上洛するというような軽率な行動は、とらない。
【写真】 源氏の氏神、鶴岡八幡宮(鎌倉市雪ノ下)
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

タグ
facebookシェア twitterシェア lineで送る
オンラインマガジン

湘南ローカル情報を日々更新中!

いますぐ使える 最新クーポン

色々な所で使えるお得なクーポンを発行中!

その他のクーポンをもっと見る
湘南ジャーナルDB 湘南のお店情報をまとめて掲載!
湘南ジャーナル まちナビ 最新情報

湘南のお店情報をまとめて掲載!

スタッフブログ

編集部情報を毎週更新でお届けします。

運営からのお知らせ

PAGE TOP