カテゴリーから選ぶ
カテゴリーから選ぶ
源平とその周辺 |2012.06.29

源平とその周辺:第11回 そして富士川合戦へ

タグ

〈(1180年10月16日)(頼朝は)駿河国に向けてご出発になった。平氏の大将軍小松少将維盛朝臣が数万騎の軍勢を率い、去る十三日に駿河国手越駅に到着した、と報告があったためである。今夜、相模国府六所宮にお着きになり、そこで、相模国早河庄を箱根権現に寄進した。〉『吾妻鏡』 (引用文献 『現代語訳 吾妻鏡』五味文彦・本郷和人編 吉川弘文館)
頼朝の挙兵の報を受けて、都から平家軍が派遣された。大将軍は平清盛の孫の維盛。
土屋宗遠は石橋山の敗戦後、頼朝の使いで甲斐国へ赴いていた。その途中の足柄関で義理の息子の義清(岡崎義実の子)に出会って共に甲斐に向かったというエピソードを『源平盛衰記』は載せる。使者としての土屋の役割は、頼朝からの伝言を武田信義をはじめとする源氏たちに伝えること。その内容は、安房・上総・下総の3ヵ国の軍兵に加えて上野・下野・武蔵の国々の精鋭を率いて駿河に赴くので、北条時政の案内で黄瀬川の辺りに来るようにとのことだった。
さて冒頭の引用文は、富士川の合戦に向かう途中の相模国府六所宮(大磯町の六所神社)において、頼朝が早河庄(小田原市早川付近)を寄進したという記事である。その下文(くだしぶみ)に自筆の書状を添えて、頼朝に忠節を尽くしてくれている箱根の別当行実のもとへ送った。
『吾妻鏡』翌17日条には、義朝(頼朝の父)の敗走に従っていた波多野義通の子の義常が、頼朝の挙兵の呼び掛けに応じなかったために誅伐されそうになり、討手が来る前に松田郷(松田町)で自害したとの記事が載る。
19日、伊東祐親が平維盛の味方につくために伊豆国鯉名泊に舟を浮かべて海上を航行しようとしたところを捕らえられ、聟(むこ)の三浦義澄に召し預けられた。1182年に頼朝の妻、北条政子が身ごもったことを聞いた三浦義澄が祐親の御赦を願って頼朝に受け入れられた。にもかかわらず、祐親は以前の行いを恥じて自害したという。
いよいよ富士川の合戦。夜半に源氏方の武田信義の軍勢が維盛軍の背後にまわろうとしたところ、驚いた水鳥が一斉に飛び立った。その飛び立つ音を聞いた平家軍が、大軍が襲来したと勘違いして慌てて敗走したために、戦わずして源氏軍の勝利となったのであった。
【写真】伊東家の伝承地の1つ、物見塚公園に建てられている伊東祐親像(静岡県伊東市大原2)
写真提供=伊東観光協会
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

タグ
facebookシェア twitterシェア lineで送る
オンラインマガジン

湘南ローカル情報を日々更新中!

いますぐ使える 最新クーポン

色々な所で使えるお得なクーポンを発行中!

その他のクーポンをもっと見る
湘南ジャーナルDB 湘南のお店情報をまとめて掲載!
湘南ジャーナル まちナビ 最新情報

湘南のお店情報をまとめて掲載!

スタッフブログ

編集部情報を毎週更新でお届けします。

運営からのお知らせ

PAGE TOP