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源平とその周辺 |2012.06.22

源平とその周辺:第10回 東国武士を味方に―頼朝の鎌倉入り

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〈(治承4年(1180)10月7日)(頼朝は)まず鶴岡八幡宮を遥拝された。その後左典厩(源義朝)の御旧跡である亀谷に行かれた。その場所を定めて邸宅をお建てになろうとしたものの、土地の形が広くなく、そのうえ岡崎四郎義実が義朝の没後を弔うために寺院を建てていたため、お止めになったという。〉『吾妻鏡』 (引用文献 『現代語訳 吾妻鏡』五味文彦・本郷和人編 吉川弘文館)
 石橋山の合戦で惨敗して、真鶴から安房へ逃れた頼朝は、関東の武士たちに参陣を呼びかけた。千葉常胤は、源家が再興しようとしているのに感激して言葉も出ないほどであると、参陣の意を表明する。上総広常は軍士を集めているという理由で遅れて参上するという。頼朝は安房から上総、下総へ行き、下総国府で千葉氏と合流した。ようやく隅田川(下総国と武蔵国の境)の辺りで頼朝のもとに参陣した上総広常は、2万騎を率いていた。内心では頼朝に形勢の高みに上る相がなければ、討ちとって平家にさし出そうと考えていた広常。大軍での参陣をさぞや喜んで迎えるだろうと思っていたところ、遅参を咎められ、威圧された広常は帰順の意を表したという。
 さらに頼朝は、平家方に味方して三浦氏を攻めた畠山重忠や河越重頼(娘はのちに源義経の正妻となる)らも、三浦党と和解させたうえで従える。石橋山の戦いで散り散りになった者たちも参集。弟の阿野全成(源義経の同母兄)とも合流した。頼朝は多くの東国の武士たちの支持を得て、大軍を率いて鎌倉に入った。その数、幾千万とも知れないほどであったと伝えられている。 伊豆での挙兵以来離れていた北条政子とも無事、再会することができた。冒頭の引用文は、鎌倉入りした頼朝が邸宅を建てる場所を決めるときの記事。はじめは、父の義朝にゆかりのある亀谷(鎌倉市扇谷地域)に建てようとした。しかし土地が狭く、さらに岡崎義実が義朝を弔うための寺院を建てていたため、その場所は止めたのだった。ちなみに、この亀谷の堂は義実の子、土屋義清(土屋宗遠の養子)が受け継ぎ、のちに北条政子が寿福寺を建立した。現在、寿福寺には北条政子と源実朝の墓といわれる五輪塔がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
岡崎公民館に建てられている銅像『岡崎四郎義實』(平塚市岡崎3634)
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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