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源平とその周辺 |2012.05.25

源平とその周辺:第6回 石橋山の合戦―佐奈田(真田)与一の出陣

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〈「源氏世を取り給ふべき軍の先陣賜ひて駈け出でたるを誰とか思ふ。音にも聞くらん。目にも見よ。三浦介義明の弟に、本(もと)は三浦悪四郎、今は岡崎四郎義実、その嫡子に佐奈田与一義貞。生年二十五。我と思はん人々は、組めや、組めや」とて叫(をめ)いて駈く。〉『源平盛衰記』(引用文献 水原一『新定源平盛衰記』新人物往来社)
 山木攻めで勝利をおさめた頼朝たちは、伊豆国を出て相模国土肥郷へ向かった。そのなかには、土屋三郎宗遠、岡崎義実、また義実の子である佐奈田(真田)与一義貞(義忠)などの姿もあった。その数300騎ほど。気がかりなのは、以前から頼朝に同意していたはずの相模の有力豪族の三浦一族がまだ来ていないということである。その頃、三浦勢は豪雨によって増水した酒匂川を渡れずにいた。
 8月23日。平家方の大庭景親の軍勢3000余騎が迫る。平家方には俣野五郎景久、海老名季貞、曾我祐信、熊谷直実などがいた。両軍は石橋山(小田原市)に陣を構えた。頼朝軍の背後には平家方の伊東祐親(曾我兄弟の祖父)が300余騎を率いて挟み撃ちにしようとしていた。激しく雨が降り注ぐなか、平家方の大庭景親らの軍が夜襲をかけてきた。大庭軍は、酒匂川まで進軍している三浦勢が頼朝軍に加勢する前に勝負を決めてしまおうと考えたのだった。
 この石橋山の合戦で、頼朝方の佐奈田与一は先陣を賜わった。装束が目立ち過ぎるので着がえるようにと頼朝に言われた与一は、「弓矢取る身にとっての晴振舞には戦さ場以上のところはありません。望むところです」と言って、冒頭の引用文のように華々しく名のりをあげた。三浦義明の弟である岡崎義実の嫡子、佐奈田与一。勇ましく先陣をきった彼は俣野五郎と組み合って死闘を繰り広げるが、ついに長尾定景に討たれてしまう。与一に従っていた郎等の文三家康も奮戦したが討死した。
写真:雨降る石橋山古戦場跡。現在は佐奈田霊社が建てられている(小田原市石橋山)
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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