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源平とその周辺 |2012.05.04

源平とその周辺:第4回 流人、頼朝—伊東と北条

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〈世を取り給ひては、伊藤(伊東)・北条とて左右の翅にて、執見(執権)に勝劣はあるまじけれども、北条殿の御末は栄えてめでたけれども、伊藤の末の絶えけるこそ悲しけれ。〉『曾我物語』(引用文献『真名本曾我物語』東洋文庫 平凡社)
 平治の乱で捕らえられ、池禅尼の嘆願によって清盛に助命された頼朝は、伊豆国蛭ヶ小島で20年ほど流人としての生活を送っていた。その頃の伊豆の有力豪族は、伊東氏と北条氏。ともに頼朝の監視役でもあった。
 伊東祐親が京都に大番役(一定期間在京して内裏や院の御所などを警備する役目)として赴いていて館を留守にしていたとき、頼朝は美女との評判が高い祐親の娘(八重姫)のもとに通っていた。そして千鶴御前という男児をもうける。しかし、勤めを終えて伊豆に戻ってきた祐親に知られるところとなってしまった。平家の咎めを恐れた祐親の命令で、3歳の千鶴は伊東の松川の奥で簀巻きにされ、川に沈められて殺された。さらに頼朝自身も祐親から襲撃を受けそうになったために蛭ヶ小島を脱出し、伊豆の北条時政の館に身を寄せることになった。そこで北条政子と出会う。
 時政は、政子を伊豆国の目代(任国に赴かない国司が派遣する私的代理人)である山木兼隆のもとに嫁がせる約束をしてしまっていたので、頼朝と政子の仲を知って驚いたが、知らぬふりを決め込む。政子は、一旦嫁がされるもすぐに夜のうちに山木の館を脱出する。そして伊豆山権現へ辿り着き、頼朝とともに参籠するのだった。
 こうして伊豆の有力豪族だった伊東祐親は頼朝の敵となり、流人頼朝を受け入れた北条時政の一族は今後栄えることとなる。伊東祐親はまた、甥の工藤祐経が継ぐべき領地を横領したために祐経から怨みをかっていた。祐親親子が祐経の手の者によって襲われたとき、祐親は助かったが息子の河津祐通(祐泰)は射殺された。遺児の一万(十郎)と箱王(五郎)は父の敵を討つと心に決めるのであった。
写真:「蛭ヶ島公園」(静岡県伊豆の国市四日町17‐1)園内に立つ頼朝と政子の像『蛭ヶ島の夫婦(ふたり)』 写真提供=伊豆の国市観光協会
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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