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源平とその周辺 |2012.04.20

源平とその周辺:第2回 義朝、義平、朝長死す

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〈義朝といっしょに落ちたのは、嫡子の悪源太義平、次男の中宮大夫進朝長、三男の右兵衛佐頼朝、(中略)わずか八騎である。〉『平治物語』(引用文献『日本の古典 平治物語』河出書房新社)
 平治の乱で敗走した源義朝一行は、つき従っていた波多野氏や三浦氏らと別れたあと、長男義平、次男朝長、三男頼朝など少数になっていた。しかも義朝が美濃国の青墓に着いた時点で、13歳の頼朝はすでにはぐれてしまって姿がなかった。義平は、再起を期して軍勢を整えるために飛騨国を目指した。また、朝長は甲斐信濃の源氏を集めるために信濃路を目指すも、戦で深手を負っていたために青墓に引き返してきた。「敵に生け捕られるよりは私を殺してください」と言い、父義朝の手にかかって亡くなった(自害したともいわれる)。
 子供たちと別れた義朝は東国へと落ちゆく途次、家人の鎌田正清の舅である尾張国の長田忠致のところに逗留した。しかし恩賞欲しさゆえの忠致の裏切りによって湯殿に入ったところを襲われ、殺害された(謀略を知って自害したとも伝えられる)。最期に「せめて木太刀が一つでもあれば」と無念がったとされることから、義朝の墓(愛知県美浜町野間)には多くの木刀が供えられている。
 義平は、父が討たれたとの噂を聞き、自害するよりも都へ引き返して平清盛父子のうちの誰かを討ちとり無念を晴らそうと考えたが、結局捕らえられるところとなった。六条河原で処刑されるときに、斬り手の難波経房に向かって「じょうずに斬れ。まずく斬ればいずれ雷になってお前を蹴殺してやる」と言い放った。生年20歳。その言葉通りに、後日義平の亡き魂は雷となり、経房を襲って殺したという。
写真:現在も多くの木太刀が奉納されている「義朝の墓」(愛知県知多郡美浜町大字野間字東畠ケ50)
写真提供=美浜町観光協会
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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