源平とその周辺:第1回 源義朝の敗走―東国へ
〈波多野次郎義通、三浦荒次郎義澄、(中略)をはじめとして、二十余人がいとまを取って、思い思いに郷国へ向けて落ちて行った。〉『平治物語』(引用文献『日本の古典 平治物語』河出書房新社)
1156年、鳥羽法皇の死後に天皇家、摂関家それぞれの政治対立から引き起こされた保元の乱。源義朝は平清盛とともに後白河天皇方について崇徳上皇方に勝った。しかし戦いには勝利したものの、信西の進言を受けた後白河天皇の命令によって平清盛は敵側についた叔父の忠正を、源義朝は実の父親である為義と弟たちを斬らされた。以後、父親を処刑した義朝には親不孝者としての汚名がつきまとう。また、これによって810年の薬子の変で藤原仲成が殺されて以降、300年以上途絶えていた公的な死刑が復活することとなる。
冒頭の引用文は、保元の乱に続いての平治の乱で、平清盛方に敗北した義朝たちが東国へ落ちのびようとする場面。近江国堅田の浦から船で琵琶湖を渡ろうとしたが波風が激しかったため、勢多を指して行く途中、味方として従ってきた兵士たちに義朝は暇を出した。「たがいに道を変えて落ちて行き、もし志があるならば東国で必ず一緒になろう」と。どこまでも供をするつもりだった兵士たちは、主人の命令なので仕方なくそれぞれの国へ落ちて行った。そのなかには相模国を本拠とした波多野義通や三浦義澄(三浦義明の子)らの姿があった。
鎌倉に館のあった源義朝は東国の武士たちと密接な関係を持っていた。三浦義明の娘との間には長男義平を、波多野義通の妹との間には次男の朝長をもうけていたのだ。義平は三浦氏の庇護を受けて育ち、朝長は波多野氏の領内の松田に邸を持つなど、源氏と相模国との結びつきは強かった。
写真=波多野氏の館があった場所と有力視されている東田原中丸遺跡。現在は公園となっている
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。
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