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源平とその周辺 |2013.01.25

源平とその周辺:第36回 兼平の説得

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 死なば一所で――。共に幼少期を過ごした乳兄弟、今井兼平との約束。だから義仲は勢多を守る兼平のもとへ向かったのだ、北陸に逃げるのではなく。そして、大津の打出浜で再会。義仲は言う。「同じ場所で死ぬとの約束を胸に、敵に後ろを見せてここまでやってきた」。兼平も「義仲様のことが気がかりで、勢多で討死すべきところを何とか逃れてきました」と、同じ気持ちだった。
 義仲が兼平に旗をあげさせると、味方が集まってきた。これで、最後の戦ができる。対するは、一条忠頼(甲斐源氏・武田信義の子)。大音声で「朝日将軍、義仲。汝のためには良い敵ぞ!」と名のりをあげ、激しく戦う。一条忠頼勢のなかを駆け抜け、押し寄せる東国勢をも打ち破り、残ったのは主従5騎。そのなかには女武者、巴(ともえ)もいた。逃げのびるように、と説得する義仲。巴は最後の戦をお見せしようと、剛力の武者を馬から引き落として鞍の前輪に押しつけ、その首をねじ切って捨てた。そして義仲に暇を申して落ちていった。
 手塚光盛(斎藤実盛を討った人物)も討死し、とうとう主従2騎。「いつもは何とも思わぬ鎧が、今日は重く感じられる」と弱音をはく義仲に、「兼平ひとりを、他の者千騎とお思いください」と励ます兼平。そして、「あちらに松原があります。防ぎ矢をいたす間、心静かに念仏して御自害ください」と勧める。義仲は兼平と一緒に戦いたがる。兼平はなおも説く。「いくら手柄をたてて名高い者でも、最後に不覚をとれば永き恥となります。取るに足らぬ者に組み落とされて討ちとられるのは、残念なことです。早くあの松原へ行き、御自害ください」。義仲は仕方なく、馬を走らせた。元暦元(1184)年正月20日。雪深く薄氷の張る日暮れ。馬が、ザッと深田に入る。脇腹を蹴っても鞭を打っても、どうにも動かない。兼平はどうなったか、自分の後ろに続いてきてくれているのか……。義仲が振り返ったその瞬間、内兜(額、顔面)に矢が突き刺さった。馬にうつぶす義仲。すばやく首をとり高々と掲げて名のりをあげたのは、相模国の石田為久(三浦氏)。兼平は、守るべき人を失った。
【写真】石田為久が築いた居城・石田城跡。現在は為久の墓がある圓光院、ゴルフ練習場、マンションが建つ(伊勢原市石田)
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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