カテゴリーから選ぶ
カテゴリーから選ぶ
源平とその周辺 |2013.02.08

源平とその周辺:第38回 平家討伐へ

タグ

 義仲討伐に関する報告が、範頼や義経らのつかわした飛脚によって鎌倉の頼朝のもとへもたらされた。御所で頼朝が使者たちに詳細を聞く。そこへ、遅れて梶原景時の飛脚も到着。景時がつかわした使者は、合戦で討ちとった人々や捕虜について記された名簿を持参していた。頼朝は景時の配慮に、いたく感心した。
頼朝は後白河法皇から平家追討を命じられる。それをうけて、範頼と義経が京都を出立した。使命は、3種の神器の奪還と安徳天皇の確保。源氏方は開戦の日を、清盛の忌日の2月4日を避けて7日と決めた。勢力を回復した平家の陣地が、東は生田の森、西は城郭を構える一の谷に広がる。一の谷の背後は断崖絶壁で、南側の海には水軍が待機。東から攻める大手の大将軍は範頼、丹波路を通り迂回した形で西から攻める搦手の大将軍は義経だ。義経軍は、途中の三草山で陣を張っていた平資盛(重盛の子、維盛の弟)らを夜襲して敗走させる。三草山を突破した義経は、軍勢を二手に分けた。土肥実平と安田義定(甲斐源氏)率いる一の谷の西から攻める隊と、鵯越方面へ進む山の手隊。さらに義経は山の手隊から70騎の精鋭を率いて、道なき山中に向かう。
7日早朝。義経のもとから抜駆けした熊谷直実父子と平山季重が先陣争いをする。少数で駆け入って奮闘する彼らに、土肥勢が加わり激戦となる。一方、大手の範頼軍も生田の森で戦闘開始。武蔵国の河原太郎と次郎が武功を立てるために先陣をきるが、共に討死。続いて梶原景時父子が500余騎で攻め入って激しく戦うが、平家の猛攻にあって退却。気づくと長男の景季がいない。「子どもを失って生き永らえたとて何になろう」と景時は、大声で名のりをあげて再び平家の軍に突入した。敵に囲まれて奮戦する景季を見つけて「まだ生きていた!」と喜ぶ景時。息子をかばいつつ猛然と戦った。景季は、咲き乱れる梅の枝を箙(えびら、矢を入れて背に負う武具)に挿して戦っていたという。彼が駆けると、梅の香りが漂った。
源平両軍による激しい戦いが繰り広げられる、生田の森と一の谷。そういえば義経の姿が、まだみえない。
【写真】『梶原景時館址』の碑。館は一宮館とも呼ばれ、土地は広大であったと伝わる(寒川町一之宮8-6)
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

タグ
facebookシェア twitterシェア lineで送る
オンラインマガジン

湘南ローカル情報を日々更新中!

いますぐ使える 最新クーポン

色々な所で使えるお得なクーポンを発行中!

その他のクーポンをもっと見る
湘南ジャーナルDB 湘南のお店情報をまとめて掲載!
湘南ジャーナル まちナビ 最新情報

湘南のお店情報をまとめて掲載!

スタッフブログ

編集部情報を毎週更新でお届けします。

運営からのお知らせ

PAGE TOP