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源平とその周辺 |2013.01.11

源平とその周辺:第34回 宇治川の激流―頼もしき畠山重忠

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 宇治川を渡りきった先陣の佐々木高綱と2陣の梶原景季に勇気づけられて、義経軍は次々と川に入った。畠山重忠も、手勢500騎とともに川を渡ろうとした。だが、水面が高くて流れも速いうえに、川底は深い。怖れる兵たちに重忠は手綱のさばき方など、細かく指示を出す。「強い馬は川上に立てて激流を防ぎ、弱い馬は川下に立てて流れの緩やかなところを渡せ。川のなかでは弓を引くな。真っすぐに渡ろうとして流されるな。水の流れに従って渡れ」。優れた容儀の重忠を源氏の大将軍かと思った木曽方の武者が、矢を放つ。重忠の馬が、射られた。傷を負って痛がる馬。その前足をつかんで右肩に担ぎ、重忠は水の底へ入った。傍目には畠山が流されたかと思われたが、彼は浮き上がって息継ぎをしてからまた川底にもぐって対岸に向かう。すると、鎧を着た武者が重忠につかまり、助けを求めてきた。「対岸に投げてくだされば名のります」というその男をつかみながら進んでいくと、また、馬と一緒に流されていく鎧を着た武者がいる。重忠は弓の一方をさし出して取りつくように言い、馬にかかる緒につかまらせて岸まで連れていった。最初に取りついてきた武者を対岸へと投げ上げたそのとき。「ただ今、徒歩で宇治川を渡った先陣は、武蔵国の大串次郎である!」と男が言った。敵味方がどっと笑う。大串はさすがに気がとがめたのか、「1陣は畠山、2陣は大串である」と言い直した。馬も人も助けながら宇治川を渡りきった大力の畠山重忠。彼はこののち鵯越の逆落としの際にも馬をいたわり、背負って崖を下ったという。
 宇治川を渡った義経軍は、木曽義仲方と対戦。宇治は、源氏にとって因縁の地。以仁王を奉じて挙兵した源頼政が、平家に攻められて自害に追い込まれたところだ。頼政の息子の仲綱も、さらには頼政の養子となっていた義仲の兄・仲家もここで自害。歌人としても有名な頼政は「埋れ木の花さくこともなかりしに実(身)のなる果てぞかなしかりける」という辞世の歌を残して、逝った。平家打倒の志を胸に無念の死を遂げた頼政の首は、敵方に見つからないようにと石とともに宇治川の底に沈められた。その宇治でいま、源氏軍が源氏軍を攻めていた。
【写真】 畠山重忠公史跡公園に建つ、馬を背負った「畠山重忠像」(埼玉県深谷市畠山)
写真提供=深谷市教育委員会生涯学習課
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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