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ヘッドライン |2013.07.19

足跡を辿る復興のまち平塚戦後68年の夏に思いを馳せる

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 昭和20年7月、米軍による都市爆撃の攻撃目標は「大都市」から地方の「中産業都市」へと移っていた。16日から17日にかけ、夜間焼夷弾攻撃の目標として決定されたのは沼津、大分、桑名、平塚の4都市。5航空団で編成される米軍司令部第20航空軍のうち、第314航空団の4部隊が平塚爆撃の任務に就いた。日本時間の16日16時38分、1201.7tの焼夷弾を積んだボーイングB29型重爆撃機136機(攻撃機132機、電波妨害機4機)は、グアム北飛行場を発進した。そして平塚のまちは焼かれた。戦後68年、焼け野原から近代的商工都市へと復興したまち、平塚。本紙今週号では、戦災復興にスポットを当てる。 協力=平塚市博物館市史編さん室
空襲
 平塚の歴史を後世へ残す中で、忘れてはならないのが、空襲は1日だけではない、ということである。16日以外にも現在の平塚市域は多くの空襲に見舞われており、戦後、平塚市に合併する「中郡」(大野町、旭村、神田村、土沢村、金目村、金田村、豊田村、城島村、大根村真田地区、岡崎村の一部)も含めると、同20年の2月16日から8月13日までで、計12回の被害が記録されている。来襲機は、B29のほか、P51ムスタング、空母艦載機(F6Fグラマン、F4Uコルセア、カーチスSB2C、TBMアベンジャー)など。機銃掃射で市民の命を奪い、爆弾で工場等を攻撃した。
復興へ
 阿鼻叫喚の地獄絵図と形容された16日夜の空襲で、平塚市域の大半は廃墟と化した。戦後、同20年12月の閣議決定による戦災復興基本方針を受け、翌21年から法令が整備され、戦災都市の再建が行われることとなった。平塚市では、大事業を直営できる行政上の力がなかったため、復興事業を県に依頼して実施したという。同年8月、戦災復興院告示111号により新しい平塚市街区の設定が決定。この時の土地利用計画、街路計画、公園緑地計画、上水道計画、区画整理などが今日の平塚の街並をつくる原型となっている。
競馬、競輪、宝くじ
 市を再興していく過程で、競馬、競輪、復興宝くじが大いに財源に寄与したという。競馬事業は、戦災都市に開催権を許可するとして、同23年の競馬法により平塚市と仙台市が指定された。翌24年から20年にわたり戸塚競馬場、のちに川崎競馬場で開催され、18億8400万円の益金を得て、その多くは学校建設に充てられた。
 また競輪事業は、同25年6月、通産省から開催認可を受けてから僅か5カ月で競輪場を完成させ、11月から開幕した。設計監督は市の建築と土木課の技師のみ、工事は市内業者だけで行ったと、当時の柿澤篤太郎市長が竣工式式辞で誇っている。
 さらに同25年3月、地方自治庁により長崎、広島、高松、明石、四日市、津、平塚の7市が宝くじの発行できる都市として指定され、同年6月に平塚で第1回復興宝くじが販売された。同事業は同26年に廃止となる。
復興まつり
 今日の「湘南ひらつか七夕まつり」の原型となった「平塚市復興まつり」が同25年、7月1日から1週間開催された。大盛況の後、商店街から毎年続けてほしいとの陳情を受けた当時の商工会議所会頭でもある柿澤市長は「何かうまい考えはないかね」と宮代長次副会頭に相談したところ、七夕まつりにしよう、ということになり、誕生したと伝えられている。
 こうしてまちは復興へと向かった。昭和40年4月、県平塚復興事業所は廃止され、業務を引き継いだ平塚土木事務所により翌41年2月に事業終了となる。20年をかけ、復興した平塚。戦前には、湘南一帯を景園地化する県の都市計画もあったという。大磯町との境には「関東の甲子園」と呼ばれた湘南野球場もあり、松竹の映画撮影所誘致の話も上がるほど、元気で賑やかだったという。だが戦争が変えた。それでも、立ち上がった。
 終戦の夏は、平和を祈る季節でもある。平塚では、空襲の悲惨さを学び平和の喜びを感じる季節でもあり、まちを力強く発展させた先人たちに思いを馳せる季節でもある。
(参考資料=『平塚市史8 資料編 現代』『平塚市史10 通史編 近代・現代』 )
【写真】
戦災復興事業が完成したことを記念して昭和42年に建てられたモニュメント(平塚市浅間町)

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