源平とその周辺: 第58回 伊勢義盛の存在感
与一の弓の技に感嘆して舞い始めた船上の平家武者が、その与一によって射殺された。伊勢三郎義盛が、「あの武者を射よ」との義経からの命令を与一に伝えたからだ。この非情なる仕打ちは、平家方にとって不本意なことであった。平家は小船を一艘、渚に寄せる。長刀、楯、弓を持つ者がひとりずつ波打ち際にあがって戦いを挑む。義経は「強い馬に乗っているものは立ち向かっていって蹴散らしてやれ」と命じた。真っ先に進んだ武蔵国の水尾谷(みをのや・美尾谷)の馬が矢で射られて倒れた。太刀を抜いて攻めると平家武者が大長刀をふるって迫ってくる。長刀にはかなわない、と逃げる水尾谷の兜の錣(しころ・左右と後ろに垂れて首を覆うもの)を平家武者が引きちぎり、叫んだ。「悪七兵衛景清であるぞ!」。義経は源氏軍を率いて自ら駆けていく。平家方も船を漕ぎ寄せて応戦する。深入りした義経を熊手で馬から引きずり降ろそうとする平家。義経の弓が引っかけられて海に落ちた。馬の腹まで水につかりながら、なんとか鞭の先で弓を引き寄せようとする義経。しきりに熊手が繰り出される。「そのままうち捨てて退いてください」との味方の説得もきかずに弓を取り戻す。たとえ高価な弓であっても命には代えられないだろうに、なぜ命をかけてまで執着するのか……。義経は「叔父の為朝のような強い弓であるならまだしも、自分のひ弱な弓を敵に取られて嘲弄されるのが嫌だからだ」と説明した。
夜は、牟礼と高松の間に陣をとって休む源氏軍。船で四国に到着してから戦いが続いてすっかり疲れてしまった兵たちは、前後不覚に眠りこむ。そのなかでも寝ずの番をしていたのが義経と伊勢義盛だ。義経は高いところにのぼって敵が押し寄せてはこないかと見張り、義盛はくぼんだ所に隠れて敵が寄せたら馬の腹を狙うつもりでいた――。夜が明けて平家は讃岐国(香川県)の志度(しど)に退く。義経は平家を追撃した。
義経は考える。阿波国(徳島県)の田口(田内)重能(成良)の子の教能(教良)を、なんとしても帰服させたい。教能は反平家の態度を示した河野通信を討ちに伊予国(愛媛県)を攻めていたが、通信を討ちもらして大軍を率いてこちらに向かっているという。「うまく言いくるめて連れてくるように」。義経は、そう義盛に命じた。
田んぼの中にぽつんと立つ『伊勢三郎義盛首塚』(三重県四日市市川島町)
写真提供=四日市市
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。
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