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源平とその周辺 |2013.08.09

源平とその周辺:第59回 源氏方についた人々

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 「阿波の最有力者である重能の子、教能をうまく言いくるめて連れてくるように」と、義経に命じられた伊勢義盛。甲冑もつけず、弓矢も持たずに白装束だけを身にまとって、わずか16騎の軍勢で教能のもとへ向かう。義盛方は源氏の白旗を、教能方は平家の味方であることを意味する赤旗をなびかせて相対した。義盛は言う。「すでにお聞きのこととは思いますが、九郎大夫判官(義経)殿が一昨日阿波国勝浦であなたの叔父上をお討ちになりました。昨日は屋島に攻めよせて内裏や御所を焼き払い、大臣殿(平宗盛)父子を生け捕りにしました。ほかにも大勢の者たちが、討ち死にしたり海に入水したりしました。生き残ったわずかな者たちも志度の浦で皆討たれました。降参してきたあなたのお父上の身柄は、私がお預かりしています。お父上が『こちらの戦局も知らずに我が子は明日の戦であなた方に討たれてしまうのか……』と夜通し嘆かれていたのが不憫で、このことをお知らせ申し上げようと思い、ここまで来たのです」。義盛はこのように嘘を織り交ぜて語った。教能は、「すでに聞いたことと全く同じだ」と言って兜を脱いで弓の弦をはずし、降服した。弔意を示すかのような白装束を着た義盛の巧みな弁舌と、あらかじめ流されていた偽りの情報に騙された教能。教能率いる3000騎が、源氏に従った。
 義経が四国を攻略したこのころになって、ようやく梶原景時率いる200余艘が屋島に到着。すでに四国を離れた平家は長門国(山口県)の彦島(下関市)に拠る。義経たちは範頼軍と合流して平家をさらに追う。
 平家か、源氏か。熊野の別当(長官)である湛増は、どちらにつくか迷っていた。新熊野神社で熊野権現に祈ったところ「白旗(源氏)につくように」との御託宣があったがまだ決心がつかない。そこでそれぞれ7羽ずつ集めた白い鶏と赤い鶏を権現の御神前で闘わせることにした。赤い鶏は、敗れてすべて逃げだした。湛増は熊野水軍を率いて源氏方に加わることを決意。河野通信率いる伊予水軍も合流する。さらに周防国の国衙の船を管理する船所正利が数十艘の船を義経に献上。これでやっと、海上の平家とまともに戦える。
【写真】
新熊野神社(=現在の闘鶏神社)にある、鶏を闘わせている様子を再現した『湛増弁慶の像』(和歌山県田辺市湊655)
写真提供=田辺市
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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