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源平とその周辺 |2013.08.30

源平とその周辺:第60回 決戦、壇ノ浦

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 1185(元暦2、文治元)年3月24日。壇ノ浦で源平の合戦が行われることが決まった。梶原景時は義経に、「私に先陣を仰せつけください」と申し出た。しかし義経の返事はつれなかった。「自分がいないのならともかく、この義経がいるのだからな」。「それはいけません。あなたは大将軍でいらっしゃいます」と言う景時に、「鎌倉殿(頼朝)こそが大将軍だ」と返す義経。景時が「生まれつきこの殿は武士の主君にはなれぬお方だ」とつぶやくと、義経は「大体お前は愚か者よ」と言い放つ。ともに太刀に手をかけて身構えたところを、三浦義澄と土肥実平が間に入って止める。「源平の決戦を前にして同志討ちなどしていたら、平家軍が勢いづくだけです。鎌倉殿のお耳に入るのも穏やかではありません」と三浦が制してその場はおさまった。
 戦いが始まった。西から東へ潮が流れる。西に陣取る平家方には有利な状況だ。平家軍では、平知盛が「戦は今日が最後だ、少しも退く気持ちがあってはならぬ。東国の者どもに弱気を見せぬように。今こそ命をかけて戦う時だ!」と、皆を鼓舞する。景清は、「坂東武者は馬上でこそ偉そうな口を聞きますが、船での戦闘は慣れていないはずです。一人ひとりつかまえて海に沈めてやりましょう」という。盛嗣が「九郎判官(義経)は色白で背が低く、前歯が出て目立つ男だというぞ」と言うと、景清は「片脇に挟んで海へ入れてやろう」と勇む。
 そのように皆が奮いたつなか、知盛には気になる人物がいた。阿波民部重能(成良)だ。どうも覇気がない。重能の子の教能(教良)は今や源氏方の捕虜となっている。寝返るのではないか。疑う知盛は、宗盛に重能を殺すよう提案した。しかし宗盛は、平家に忠実に仕えてきた重能を確たる証拠もなく殺害することを許さなかった。
 源平両者が奮戦する。梶原は親子主従で散々に斬ってまわり、和田義盛は次々と矢を射かける。長時間にわたって激しく繰り広げられる壇ノ浦での戦い。どうやら潮の流れが東から西へと変わってきたようだ。そして、阿波重能の様子が、おかしい。
【写真】
壇ノ浦古戦場址に建つ、八艘飛びの義経と碇をかつぐ知盛の『源義経・平知盛像』(山口県下関市みもすそ川町)
写真提供=下関市
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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