源平とその周辺:第62回 波の下の都
安徳天皇の乗る御座船に平知盛(清盛と時子の子)が参上した。女房たちに「もはや、これまでです。見苦しいようなものは海へ投げ入れて沈めてください」と指示して、自らも船内を掃除して回る。戦況を心配して尋ねる女房たちに、「今日からは珍しい東男を御覧になることでしょう」と笑いながら答える知盛。「このさし迫った事態に際して何という冗談をおっしゃるのですか」と女房たちは叫び出す。すでに心を決めていた二位尼(清盛の妻・時子、安徳天皇の祖母)は、三種の神器のうちの2つ、神璽(八尺瓊曲玉・やさかにのまがたま)と宝剣をしっかりと身に携えた。さらに8歳の天皇を抱きあげて、皆に述べる。「私は女でも敵の手にはかかりません。天皇にお供します。天皇に心を寄せるものは、急いで後に続くように」。そして船端へと歩み出るのだった。
どこへ連れて行かれるのだろうかと不思議に思う幼い天皇に、二位尼は「極楽浄土にお連れしますよ」と泣きながら諭す。安徳天皇は、教えられた通りに小さな手を合わせて東の方角にある伊勢大神宮を拝んでから、西の方角に向かって念仏を唱える。「波の下にも都はありますよ」と二位尼は慰めて、安徳天皇を力強く抱きしめながら海へ飛び込んだ。幼い天子の身体は、深い海底へと沈んでいって二度と浮かびあがってくることはなかった。
源氏方の渡辺党の武者が、海に漂う女性の長い黒髪を熊手で引っかけて寄せる。そして引っ張り上げた。生捕られていた女房たちが、「情けないことです。そのお方は女院(安徳天皇の母である建礼門院徳子、清盛と時子の娘)でいらっしゃいますよ」と指摘する。源氏武者は義経に建礼門院を捕らえたことを報告して、急いで御座船にお移しした。建礼門院は心を痛めていた。焼き石(身体を温めるために綿や布に包んで懐中に入れる石)と硯を左右の懐へ入れ、母(二位尼・時子)と子(安徳天皇)の後を追って海へ飛び込んだのだが、ともに沈みゆくことができなかった。死に別れた我が子は、波の下の都にたどり着いただろうか――。
龍宮城を思わせるような姿の赤間神宮(山口県下関市)に、幼き帝は今も祀られている。
【写真】安徳天皇を祀る赤間神宮の水天門(下関市阿弥陀町)写真提供=下関市
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。
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