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ヘッドライン |2014.03.14

これからも、本社は平塚で日産車体が新本館を竣工

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 日産車体株式会社(渡辺義章代表取締役社長)は、同社湘南工場第2地区(平塚市堤町)に建設していた新本館が完成したとして10日、竣工式を行った。2007年、本社機能を置いていた第1地区(同市天沼)の閉鎖を決定して以来、日産車体九州株式会社の新工場稼動や第1地区の売却決定、第4地区(同市長瀞)の売却など、動向が注目されていた同社だったが、このたび湘南地区の再編が完了したと発表。今後も、本社機能は「発祥の地・平塚」に置かれ、車両の生産も、集約された「新生」湘南工場で継続されるという。
 創業は1937年、日本航空工業株式会社として平塚の地に誕生。戦時中は陸軍の航空機を生産していたが、終戦後1946年に日国工業株式会社と改称し、鉄道車両と自動車車体製作へと転換。1947年には国内初の超大型トレーラーバスも完成させた。1951年からは日産自動車株式会社と提携し、1971年に現社名へと改称。スポーツカー「フェアレディZ」などをはじめ、これまでに多くの人を魅了し、夢を乗せた数々の車両がこの平塚で、生産されてきた。
時代は変わり「日産車体跡地」に
 2000年時点では年間30万台を超える生産台数を誇っていたが、徐々に減少し、第1地区の閉鎖を決定した2007年の生産台数は25万台ほどだったという。その後2010年に九州の工場が稼動してから湘南地区の再編が行われ、同地区で勤務していた従業員およそ1500人の半数以上となる約900人が九州へ異動した。第1地区の跡地14.3万㎡については、譲渡対象地として2012年より平塚市と土地活用の協議を始め、翌年には都市計画提案書を市へ提出。現在は市で審査中であり、今後、都市計画決定手続きへ進む予定だ。
 地域では「日産車体跡地の開発問題」としてしばしばまちづくりの話題で挙げられるほど、平塚の将来を形づくる上では欠かせない重要な要素となったが、同時に、同社の動向も関心を集めていた。
この先も、平塚で
 日産車体が湘南工場第1地区を閉鎖――。生産車種も、従業員も多くが九州へと移った。この先、日産車体はどこへ向かうのか。「平塚を捨てるのか」と言われたこともあったという。渡辺社長は「今後も平塚でやっていくのか、ということは色々な所で聞かれました。従業員も不安だったと思いますが、本社は平塚に残そう、という想いはありました」と話す。
 「もちろん今後も発祥の地、平塚で事業を続けてまいります。地元に貢献していくのが我々の役割だと思っています。そういった想いも込め、第2地区に建て直したのが本社ビルです。そしてこの先も、生活の基盤をここに置き、日産車体はしっかりとここで事業を展開します、という意志の表明でもあります」と力強く語った。
 なお同社の新本館は、同日、榎木町中堂自治会と市の3者による「津波避難ビルとしての使用に関する協定」が締結され、緊急時に地域住民が一時的に避難できる「津波避難ビル」として指定された。

【写真左から】
渡辺社長(中央)らによるテープカット/工場でライン製造される車両

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