源平とその周辺:第46回 平家の明暗
平家一門の動きから離脱して高野山で出家し、熊野を参詣した平維盛。舟に乗り、那智の沖で最期の念仏を唱えるときにも、妻子への思いが断ち切れないでいる。「妻子への愛着にとらわれて死ぬのは罪深いと分かっているのに……」と懺悔する維盛に、滝口入道は諭す。「情愛の絆はどうにもならぬもの。成仏して悟りを開けば、恋しい人を浄土へ迎えられますよ」。その言葉に励まされて維盛は念仏を唱え、海へと身を投げる。従者たちも後に続く。屋島の平家への伝言を頼まれたお供の武里も、悲しみのあまりに海に入ろうとするが、滝口入道に止められる。もしかしたら維盛が浮かび上がることもあろうかと海面を見つめる滝口入道と武里。しかし再び維盛の姿を目にすることはなかった。維盛の最期に関しては、『源平盛衰記』に異説が載る。ひそかに都へ上り後白河院に会った維盛は鎌倉へ下向するよう命じられ、道中、断食して相模国湯下(ゆした、ゆもと)の宿で亡くなった、という説。また、熊野の那智に匿(かくま)われたともいう説もある。
維盛にとって辛かったのは、妻子を思うゆえの優柔不断な行動を、平家に背いて頼朝のもとへ靡(なび)く意思ありと疑われ続けたことだった。平家都落ちの際に鎌倉へと逃げた頼盛(頼朝を助けた池禅尼の子)のように、裏切るつもりなのでは――、常にそう警戒されていた。だから武里によって、屋島の平家に詳細が伝えられたとき、叔父の宗盛や二位尼(清盛の妻・時子)は涙を流した。維盛に二心がなかったことが明らかになったからだ。
一方の平頼盛は、没収されていた領地を取り戻していた。頼朝が池禅尼の恩義に報いるため、朝廷に頼盛の赦免と所領の返還を願い出ていたのだ。関東に下向してきた頼盛は、鎌倉に滞在。1184年5月には、頼朝の誘いを受けて一条能保(頼朝の妹の夫)らとともに由比ヶ浜から舟に乗り、杜戸(三浦郡葉山町の森戸海岸付近)へ出かけた。御家人たちの飾り立てた舟が先を競い合う。杜戸で見物した小笠懸(疾走する馬に乗って的を射る武芸)は本当に素晴らしいものだった。相模国の海辺。平頼盛は、源頼朝と共に充実したひとときを過ごしていた。
【写真】
頼朝と頼盛が散策したという森戸海岸(葉山町堀内)
【著者】
新村 衣里子 元平塚市市民アナウンサー。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。
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