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源平とその周辺 |2013.04.26

源平とその周辺:第47回 宗清の決断

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 鎌倉に滞在中の平頼盛のために、酒宴を催したり金銀や織物などを献上したりと日々、手厚くもてなす頼朝。頼朝の口添えで頼盛に所領が返還されたあと、今度は頼盛父子を元の官職に戻すようにと朝廷にはたらきかける。 6月には、もうすぐ京へ帰る頼盛のために宴が催された。頼朝は頼盛に剣や砂金、鞍をつけた馬10頭などを餞別として贈った。その後、頼盛の従者にも引出物を与えようと、頼朝はまず平宗清を召す。しかし宗清は、この場にいなかった。宗清は池禅尼(頼盛の母)の侍で、平治の乱のときに父の義朝とはぐれた頼朝を捕らえたうえに、頼朝の兄の朝長(負傷したために美濃国青墓にて父義朝の手にかかって亡くなった。母は相模の有力武士波多野氏の娘)の首も京へと運んだ人物。捕縛された頼朝の世話を親身になってしてくれて、頼朝が処刑されぬようにと池禅尼にかけあってくれた、命の恩人だ。だから前々から、ぜひとも宗清を鎌倉に連れてきてほしいと頼盛に言っておいたのだ。それなのに来ていないとは一体どうしたというのか。頼盛が鎌倉に到着した際には、病気で遅参しているということであったが、もう着いていてもいいはずだ。宗清の心遣いに報いるためにたくさんの引き出物を用意してあるのだ。宗清に会えることを期待していた頼朝は、落胆した。宗清はなぜ、鎌倉に来なかったのか。京で頼盛が頼朝の意向を宗清に伝えたとき、彼は言った。「戦場に向かわれるのであれば、進んで先陣をおつとめしましょう。しかし平家が没落してしまった今、鎌倉に参上するわけにはまいりません。西国にいらっしゃる平家の皆様に対して恥ずかしく思います」。宗清は、そう言って屋島の宗盛のもとに向かったのだ――。この後、頼朝を選択した頼盛は、権大納言に返り咲いて家の存続を保った。頼盛の官職復帰を朝廷に申請するときに、頼朝は、弟の範頼や源広綱(頼政の子あるいは孫)、平賀義信を国司に任官することをも同時に願い出ていた。頼盛がかつての地位を取り戻したこの時、頼朝が推挙した通りに範頼らもめでたく国司となる。だが一の谷の合戦で活躍したはずの義経に与えられた官職は、何もなかった。
著者:新村衣里子
【写真】
「源朝長の墓」(岐阜県大垣市青墓町)首塚は静岡県袋井市友永にある。写真提供=大垣市
 
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