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源平とその周辺 |2013.05.10

源平とその周辺:第48回 鎌倉に来た人々

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 1184年4月。三善康信(入道善信)と源光行が鎌倉に到着した。三善康信は、母親の姉が頼朝の乳母であった関係で、流人であった頼朝に定期的に都の情報を伝えていた。彼による「源氏が追討される危機にある」との情報が、頼朝を挙兵に踏み切らせたともいわれる。京都で頼朝に助力していたが、今回は頼朝に招かれて下向してきた。康信と対面した頼朝は、「鎌倉で武家の政務を補佐するように」と言う。穏やかな人物、というのが康信に対する頼朝の評価だ。三善氏は法律家の流れをくむ家柄。頼朝との約束通り、康信は鎌倉幕府の訴訟や裁判をつかさどる問注所の初代執事をつとめ、幕府に貢献することになる。鎌倉の政権を盤石なものにするために、京都で官僚経験のあるものを重用する頼朝。ちなみに鎌倉政権の安定に寄与した大江広元も、もともと朝廷に出仕していた人物だ。彼は、一般の政務や財政をつかさどる政所の初代別当(長官)となっている。
 さて、源光行が鎌倉に下向してきた理由は、平家に属した父親の赦免を頼朝に願い出るためだった。歌人であり『源氏物語』の研究家としても知られる光行は、のちに鎌倉幕府に仕えて政所別当にもなる。文化面や政治面における、幕府と朝廷との橋渡し役を担った。承久の乱では敗者の後鳥羽上皇側につき、幕府によって処刑されそうになったが助命されたという。その光行の名が、『海道記』の作者として挙がっている。この作品は1223年に京都から鎌倉に下った際のことを記した紀行文であり、実際のところ著者は詳しくは分かっていない。
 『海道記』の作者が見た大磯、小磯の浦の情景。波の上には橋のような雲が浮かんでいて、鵲(かささぎ。七夕の日には天の川に羽を並べて橋をかけるといわれる鳥)が大空に羽ばたいている。さびしいような空。ほかの旅人は、眺めることに馴れているのだろうか、通り過ぎていく。「大磯や小磯の浦の浦風に行くともしらずかへる袖かな」(私が東の方へ行くとも知らずに、大磯小磯の海辺の風に吹かれて西へ帰そうと後ろに翻る袖よ)。大磯小磯の浦の風景は、京からの旅人に感興を催させたのだった。旅人は足を止め、歌を詠んだ。【写真】大磯海岸
著者:新村衣里子

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