カテゴリーから選ぶ
カテゴリーから選ぶ
源平とその周辺 |2013.05.17

源平とその周辺: 第49回 義高と大姫

タグ

 1184年4月10日。京にいる義経からの使者が鎌倉に到着した。源義仲(頼朝のいとこ)を追討した功績によって頼朝が正四位下に叙せられたと伝えてきたのだ。頼朝を征夷大将軍にすべきかとの審議もなされたが、天皇から刀剣を賜わって任じられる征夷大将軍の宣下は、鎌倉にいたままの頼朝には与えられなかった。頼朝が征夷大将軍となるのは後白河法皇の死後、まだ先の1192年のことだ。
 さて、義仲の遺児の義高は、頼朝の娘である大姫の婚約者として(実際は人質として)鎌倉にいた。頼朝は考える。義仲が誅された今、その子も罪は免れないだろう。だから義高を殺すように。頼朝がそう側近に命令したのを女房たちが聞きつけて、大姫に知らせた。21日の暁、義高の鎌倉脱出計画が実行された。まず、義高は女房になりすまして御所を出る。その際に使用した馬の蹄は、足音がしないように綿でくるんであるという用心深さだ。御所内では義高に仕えていた同年の海野幸氏が、髻(もとどり・髪を頭の上に集めて束ねた部分)を出して寝ており、起きてからは双六をうっていた。誰もが、義高の不在に気づかない。しかし、夜になって事が露見。憤慨した頼朝は幸氏を拘束し、義高を討ちとるために堀親家らの軍兵を派遣した。大姫は心を乱された。26日。堀親家の郎従である藤内光澄が鎌倉に帰参して、武蔵国入間河原で義高を誅殺したことを報告。それを知った大姫は嘆きのあまり、飲食を断ってしまった。政子も娘の心中を思って深く悲しんだ。
 6月27日。義高を討ちとった藤内光澄が、斬首されて首をさらされた。頼朝の命令を実行した彼がなぜ殺されなければならなかったのか。それは政子の憤慨によるものだった。政子は責める。義高が殺されてからずっと大姫が病床につき、日を追って憔悴している。これは藤内の不始末のせいだ。義高誅殺の御命令を受けたとしても、なぜ内々に大姫に事情を知らせなかったのか――。政子の厳しい追及に、頼朝は自分の命令を忠実に実行した藤内を斬罪に処さざるを得なくなってしまった。それほどまでに、大姫の受けた心の傷は、深刻だった。
【写真】
木曾清水冠者義高を祭神に祀る狭山市指定文化財「清水八幡宮」(埼玉県狭山市入間川3-35付近)
写真提供=狭山市
著者:新村衣里子

タグ
facebookシェア twitterシェア lineで送る
オンラインマガジン

湘南ローカル情報を日々更新中!

いますぐ使える 最新クーポン

色々な所で使えるお得なクーポンを発行中!

その他のクーポンをもっと見る
湘南ジャーナルDB 湘南のお店情報をまとめて掲載!
湘南ジャーナル まちナビ 最新情報

湘南のお店情報をまとめて掲載!

スタッフブログ

編集部情報を毎週更新でお届けします。

運営からのお知らせ

PAGE TOP