カテゴリーから選ぶ
カテゴリーから選ぶ
源平とその周辺 |2013.05.24

源平とその周辺:第50回 甲斐源氏、一条忠頼

タグ

一条忠頼と板垣兼信は、富士川の合戦で功のあった甲斐源氏の武田信義の子である。源氏の人間として、他の家人たちとは違う、という思いがあったろう。頼朝は、そうした言動を敏感に察知する。
 1184年3月17日。板垣兼信が使者を通して頼朝にこう言ってきた。「源氏の御一門に連なる私は、今回の平家追討使を承って本望です。しかしながら、土肥実平が頼朝様の特別の御命令を受けているといっては私に相談もせず、意見も聞かずに独断で雑務などを取り計らっています。この調子では勇む心を失ってしまいます。西国にいる間は兼信が実平の上司である、との御一筆をいただければ、面目が立ちます」。それに対して頼朝は答える。「一門とか家人とかは問題ではない。実平の忠節心は他の者とは比べようもない上に、頼朝の代理人としてふさわしい器量を持つゆえに西国の諸事を任せたのだ。兼信のような者はただ戦場において命を捨てることを考えていればよい。このたびの兼信の申しようは身分不相応である」。使者はむなしく西国に走り帰っていった。
 不穏な噂が流れていた。兼信の兄の一条忠頼が、威勢をふるうあまりに世を乱そうと野心を抱いている、というのだ。頼朝は、どうしたか。6月16日の夕方。御所に参上した一条忠頼は、頼朝と向きあう形で席につく。主な御家人たちも列席している。献盃のため工藤祐経が銚子を持って御前に進む。彼は前もって忠頼を討つよう命じられていた。事の重大さを思案していた祐経の顔色が、変わった。躊躇する祐経に小山田有重が座を立って声をかける。「このような席でのお酌は老いた者の役割です」。有重が祐経の銚子をとると、子の稲毛重成と榛谷重朝も盃と肴を手にして忠頼の前に進んだ。有重は息子達に諭す。「給仕の際、指貫(さしぬき・袴の一種)は裾の紐を(足首ではなく)膝下のところで結ぶものだ」。2人が紐を結び直しているときに、天野遠景が太刀をとって即座に忠頼を誅殺。御家人たちの面前で殺された忠頼。義仲追討の賞として位を得た頼朝は、義仲攻めに貢献した一条忠頼を斬り捨てた。たとえ平家追討の途上であっても、自分を脅かす存在は、源氏であろうが粛清する。
【写真】甲斐源氏の英雄とされる忠頼が眠る、富士川町指定文化財「一条忠頼の墓」(山梨県南巨摩郡富士川町舂米)写真提供=富士川町
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

タグ
facebookシェア twitterシェア lineで送る
オンラインマガジン

湘南ローカル情報を日々更新中!

いますぐ使える 最新クーポン

色々な所で使えるお得なクーポンを発行中!

その他のクーポンをもっと見る
湘南ジャーナルDB 湘南のお店情報をまとめて掲載!
湘南ジャーナル まちナビ 最新情報

湘南のお店情報をまとめて掲載!

スタッフブログ

編集部情報を毎週更新でお届けします。

運営からのお知らせ

PAGE TOP