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源平とその周辺 |2013.05.31

源平とその周辺:第51回 三日平氏の乱

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 粛清される源氏もいれば、重要な役割を与えられた源氏もいる。一条忠頼の誅殺事件の後、頼朝の推挙によって源氏一門の範頼が三河守、広綱が駿河守、平賀義信が武蔵守に任じられることとなった(第47回に既述)。
1184年7月。伊賀国の守護の大内惟義(平賀義信の子)からの使者が鎌倉に到着した。平家一族の襲撃によって、家人が大勢殺されたというのだ。この反乱の首謀者は平(平田)家継(平家貞の子)。平家に恩義のある伊賀の武士を集め、近江を突破して都に攻めのぼろうとした。この乱に、伊勢の平信兼(頼朝の旗揚げ時に殺された山木兼隆の父)も参戦。これに近江の佐々木秀義が立ち向かう。秀義は、平治の乱で敗れた源義朝方に従ったために所領を没収されて相模の渋谷重国の庇護を受けていたが、子ら(宇治川の先陣の4男高綱など)の活躍で旧領を回復し、近江にいた。秀義は、5男義清(母は渋谷重国の娘)とともに奮戦したが、敵方の矢を受けて討死。源氏方はなんとか平家の反乱軍を鎮圧した(三日平氏の乱)。再び、大内惟義から報告がきた。「平家の反乱軍と戦って逆賊を討ち果たしました。平信兼とその子息たちは逃亡。逆徒鎮圧の恩賞をお願いいたします」。頼朝は言う。「逆徒を討ったのは殊勝だが、恩賞を望むのは道理に合わない。狼藉を鎮めるために守護に任じられているのに、賊徒の襲撃で家人が大勢殺されたというのは、用意を怠った汝のせいだ。これが過失でないと言えようか。賞罰は私が決める」。そして頼朝は京都の義経に、逃亡した信兼父子たちの捜索と誅殺を命じた。 
 こうした混乱のさなか、義経が左衛門少尉に任じられ、検非違使(都の犯罪を取り締まって秩序維持にあたる官職)になったと伝えてきた。自分が所望したわけではなく、度々の勲功のためと後白河院から仰せがあったので固辞できなかったという。後白河としては義経を自分の配下に置いて直接命令を下したい。そうした後白河による懐柔を警戒していた頼朝は、自分を介さずに任官することを御家人たちに固く禁じていた。それなのに、こともあろうに弟が無断で判官(ほうがん・検非違使尉)となってしまった。頼朝は、その軽率さに怒りを覚えた。著者:新村 衣里子
【写真】重国に関する資料等も展示する高座渋谷の地元商店「渋谷の庄 重国庵」(大和市下和田)

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