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源平とその周辺 |2013.06.07

源平とその周辺:第52回 藤戸の戦い

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 頼朝の弟の範頼が、平氏追討のために鎌倉を出発した。もうひとりの弟の義経は、伊勢で蜂起した信兼の息子たちを誅殺したと使者を通して鎌倉に報告してきた。頼朝は、自分を介さずに官職を得た義経に不満を抱きつつも、まだ何とか自分側に引き寄せようとしていた。そして頼朝は、京都における信兼らの所有地を義経に支配させると決める。さらに、河越重頼の娘を義経の妻にしようとはからった。のちに義経が頼朝に追われる立場になったとき、縁戚であることを理由に重頼父子までも誅殺されることになる。重頼の娘も、義経と共に奥州で亡くなる。ともあれ頼朝は、京における義経の動向に注意を払う。そして義経を自分に繋ぎとめるために働きかける。
 さて、平家の人々は500余艘の船に乗り、備前国児島(岡山県児島半島)にいる。現在は地続きのこの地は当時、浅い海に囲まれた島で、西北には本土との間隔が比較的狭い藤戸(倉敷市)があった。海を挟んで対峙する源氏と平氏。一戦交えるにしても、源氏には海を渡るための舟がないのだった。血気盛んな平家の若者たちが小船から挑発する。海に阻まれて何もできないまま過ぎる日々。せめて舟があれば……。あるとき佐々木盛綱(秀義の3男。兄高綱は宇治川の先陣で有名)は浦の男に「この辺りに馬で渡れるところはないか」と尋ねた。男は、「川の瀬のようなところが、月初めには東にあって月末には西になります」と教える。盛綱は別れ際、その男を殺した。他の誰かに教えられたら困るからだ。さて次の日。船上の平家がまた挑発してきたのを見て、盛綱は馬ごと海に乗り入れた。驚いたのは範頼だ。「物の怪でもついておかしくなったのか。止めよ」。範頼の言葉を受けて土肥実平が制止しようとするが、盛綱は進み続ける。深いところは泳がせて、とうとう浅瀬に乗り上げた。それを見た範頼は「浅いぞ。渡せ」と号令。3万余騎(『平家物語』による)が海に入る。源氏は平家の船に乗り移って散々に攻め、かなわないと悟った平家は四国へ逃げる。追いたくても源氏に船はない。頼朝はこの盛綱の先陣の知らせを聞いて感心した。川なら分かるが、馬で海を渡るなどというのは聞いたこともなかったからだった。著者:新村 衣里子
【写真】盛綱橋の橋上に建つ「佐々木盛綱像」(岡山県倉敷市藤戸町)写真提供=倉敷市

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