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源平とその周辺 |2013.06.15

源平とその周辺:第53回 範頼と義経

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 藤戸にて源氏の猛攻にあった平家は、四国の屋島に逃れた。平宗盛率いる平家軍は、屋島に城郭を構えていた。範頼軍は、まずは平家の地盤である九州を攻略するという使命を帯びて西海へ進む。平家の退路を断つためだ。しかしこれが困難を極めた。1185年正月6日。昨年11月に出発していた範頼からの使者が頼朝のもとへ到着し、「船もなく兵糧も尽きて、多くの者が本国に帰りたがっています」と範頼軍の窮状を報告した。頼朝は言う。「九州の者が従わないといっても、落ちついて対応して決して人々に憎まれないように。東国軍に九州の人々を加えて屋島を攻めさせ、急がず冷静に対処しなさい。敵を漏らさぬようよく準備して臨むように。くれぐれも屋島にいらっしゃる安徳天皇や二位尼(清盛の妻)を無事にお迎えできるように配慮してほしい。武士たちに自分勝手な行動をさせないように」。そして頼朝は兵糧米を範頼軍へ送る。西海では厭戦気分が漂うあまり、和田義盛までもが密かに鎌倉に帰参しようとする始末。厳しい持久戦となった。26日になって臼杵惟隆と緒方惟義(惟栄)兄弟が兵船を、宇佐那木遠高が兵糧米を献上したため、豊後国(大分県)に渡ることができた。2月1日には筑前国(福岡県)葦屋浦で原田種直父子が戦いを挑んでくるも、渋谷重国らの奮戦により制圧。しかし、兵糧米欠乏のために本州へ撤退するなど依然、一進一退の状況であった。頼朝は屋島を直接攻撃することに方針を転じた。
 そして短期決戦型の義経の起用が決定する。京から出陣した義経は、摂津の渡部津(大阪市内)で四国へ渡る機会をうかがっていた。ここに来ていた後白河院の使者の高階泰経が、義経に尋ねた。「大将たる者は先陣を競うのではなくて、まず次将を遣わすものではないのか」。後白河側としては、平家追討に出向くよりも京都の治安維持を優先してほしいというのが本心だ。義経は「特に思うところがあるので、先陣をきって命を棄てたいと思います」と覚悟のほどを述べた。渡部津では、今後の船いくさについての軍議が行われた。海戦を得意とする平家とどう戦うべきか。そのとき、軍奉行の梶原景時が提案した。「船に逆櫓をつけてみてはどうだろうか」と。
【写真】逆櫓論争がなされたとされる『逆櫓の松跡』(大阪市福島区福島)写真提供=大阪市福島区
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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